キリスト語録

menu

第8回 キリストが来た理由

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ福音書3:16)

イエスと問答するうちにパニックになってしまった教師ニコデモ。そんな彼にイエスは、「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証(あか)ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天からくだって来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」と筋道をたてて説いていきます。そして、ユダヤ人なら誰もが知っている”モーセの蛇”に自分をなぞらえるのです。

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

「モーセが荒れ野で蛇を上げた」とは、民数記21章に記録されている史実を指します。
イスラエル200万の民が荒れ野をさまよっていたとき、ヤハウェに反抗したために、ヤハウェは『炎の蛇』をイスラエルに送りました。ヤハウェに反抗した多くの者がこの蛇にかまれて死ぬのを見て、イスラエルが反省したとき、ヤハウェはモーセに「青銅の蛇をつくって、竿の先に高くかかげよ。炎の蛇に噛まれても、この青銅の蛇を見上げるなら命をとりとめる」と約束したのです。
これ以後、炎の蛇に噛まれても「あの青銅の蛇を見上げれば助かる」とヤハウェの約束を信じて見上げた者は、死ぬことはありませんでした。
記録はありませんが、もし「作り物の蛇を見たくらいで、蛇の毒がなくなるわけがない」といってヤハウェの約束を信じない人がいたとしたら、その人は自分の不信心のために命を落としたことでしょう。

「人の子」とは、キリストであるイエスのことです。モーセの青銅の蛇が、ヤハウェのさばきによる死から人々を救うために竿の先に上げられたように、イエスも、ヤハウェのさばきによる滅びから人々を救うために、十字架の上に上げられるという予言なのです。それは「イエスをキリストとして受け入れれば、滅びから救い出す」という聖書の約束を信じるかどうかを、全人類のひとりひとりに選択する機会を与えるものになるのです。

「ただ信じるだけで、何かが変わったりするものか」と聖書の約束を拒否するのも自由です。でも、たとえ子供が反抗しようとも愛する親のように、ヤハウェはすべての個人を愛しているのです。それを示す、聖書の根幹ともいえる言葉が「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という発言です。

『独り子』とは神の子キリストであるイエスを指します。といってもヤハウェとキリストが親子関係というわけではなく、父とか子とかは、キリストがヤハウェとともにあった位から、人間のもとへ派遣されてきたことを示しています。
そして聖書の神は父ヤハウェと子キリストと聖霊の三位で一体です。つまり父が独り子を世に与えたとは、創造者が自分自身を裂いて世に与えたという意味です。それほどに創造者は、世(の人)を愛しているというのです。それは、独り子イエスを受け入れる者が天国=父のもとへ来て永遠に生きるためだというのです。

では創造者の独り子であるイエスは、全人類を裁判して自分を受け入れる者と受け入れない者にわけるために来たのか。ちょっと違います。
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
すべての人は、罪のためにすでに有罪の身なのです。判決の言い渡しがまだというだけで、すでに裁かれているのです。でも今ここに創造者の独り子イエスが遣(つか)わされました。そして、イエスを受け入れた者はさばきを免除され、永遠の刑罰から救われるのです。(人が免除された分をイエスが背負って受刑することになります)

では、すでに裁かれている人と、イエスを受け入れる人の違いは、どこにあるのか。イエスは明快に教えます。
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

前へ 上へ 次へ

作成:2002年
更新:2009年10月4日

布忠.com