キリスト語録

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第7回 教師ニコデモ

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音書3:3)

ニコデモ、という人物が登場します。ファリサイ派のラビ(教師)で、ユダヤ人たちの議員でもありました。
ファリサイ派の中で「何が何でもイエスを排斥せねば」という議論が高まったとき、たったひとり「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と異を唱えた人でもあります(→ヨハネ7:47-53)。このように、ニコデモたちは聖書にもとづいて考える、今でいう原理主義者だったようです。当時の宗教界の多数派は、『聖書』よりも聖書についての伝統的な『解釈』に重きを置いていました。(現代のキリスト教界も含めて、何かを教える側の体系というのはどうしてもそういう傾向が出てきてしまうもののようですが)

イエスがキリストであることは、旧約聖書のキリストについての預言をイエスの言動と比べてみると明らかになります(それについては、この連載でいずれ見えてきます)。でも当時の宗教界は、自分たちの解釈によって勝手に予想したキリスト像とは似ても似つかないイエスを、キリストと認めることができませんでした。
伝統的解釈よりも聖書そのものを重んじるニコデモだったからこそ、「もしやイエスは聖書が預言していたキリストではないか」と思ったのでしょう。主流派の目を避けて夜中にイエスのもとを訪ね、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と切り出したのです。

ところが、せっかく夜中に危険をおかしてやってきたニコデモに、イエスは「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と煙に巻くようなことを言うのです。
「年を取ってから、母の胎内入ってまた生まれてくるなんて、どうしてできましょう」というニコデモの反応は、素直かつ論理的なものでした。が、イエスはそういう意味で言ったのではない、と説明していきます。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」

(この「新しく生まれる」というのは、キリスト教のキーワードのひとつです。クリスチャンになるとは、古い自分が死んで新しい自分として生きることであり、また永遠の滅び(地獄)への人生から、永遠の生命(神の国)への人生にスイッチすることなのです。
クリスチャンの中には『Born Again』というステッカーをギターケースなどに貼っている人もいます。)

さらにイエスはことばを続けます。「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

「霊」というヘブライ語は「息・風」という語から派生しています。最初の人間アダムも、創造者ヤハウェから「鼻に命の息を吹き入れられ」て、生命を与えられました。これは人間が他の動物とは違って、ヤハウェから息=霊を与えられたということです。風がきまぐれに吹く(ように見える)ように、霊は自由意思を持ちます。人間が本能や反射だけでなく考えて行動できるのは、他の動物とは違ってヤハウェから特別に「霊を持つもの」として創造されたからなのです。
風は目に見えませんが、音などの作用によって私たちは風の存在を知ります。同様に私たちは、霊の作用(たとえば人格的な思考など)によって「人間」なのです。
しかし人間は創造者から離れてしまいました。もう一度「霊によって生まれる」つまり創造者から命の息を吹き込まれる必要があります。そうすれば、風が思いのままに吹くように、人間もヤハウェにあって完全な人格を持つことができるのです。

とはいっても、ニコデモにはそこまで理解できませんでした。まるで謎かけのようなイエスの教えに、一休さんにやりこめられた和尚さんのように混乱し、どうしてそんな論になるのかと疑問をなげます。これにイエスは「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」といって、核心に入っていきます。


【ちょっとブレイク】
ニコデモについては、こんな小噺があります。

宣教師が来たというので、新しもの好きな熊さんが南蛮寺(教会)をのぞきに行きました。そして宣教師がたどたどしい日本語で「ニコデモ、救ワレマシタ」というのを聞いて、感心しながら長屋に帰ってきました。

それをみた八っつあんが「よう熊公、ヤソ教(キリスト教)の説法を聞きに行ったってェが、神妙な顔をしてどうしたい」と冷やかすと、熊さんはこう答えたそうです。
「ヤソ教ってのはてェしたもんだ。『ネコでも救われました』だとよ。畜生でも救われるってンなら、人間様だってどうにかしてもらえそうじゃねェか」

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作成:2002年
更新:2003年5月25日

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