キリスト語録

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第3回 vsサタン

「・・・と書いてある。」(マタイ福音書4章4ほか)

キリストであるイエスが、タダで人間を罪から救う。人間にとっても、人間を愛してやまない創造者ヤハウェにとっても、すばらしい展開です。でもこれを喜ばないのが、サタンつまり悪魔です。創造者を追い落として代わりたいサタンとしては、せっかく人間の祖アダムとエバを誘惑して創造者から引き離したのに、とり返されては元も子もない。そこで、イエスがバプテスマを受けるとあわててやってきて、人々を教え始める前にキリストを誘惑しようとします。

イエスは祈るために荒野にいました。祈りとは創造者との対話ですが、イエスはこれから人々を救うにあたって創造者と相談していたのでしょう。祈りは食事もとらずに四十日間も続きました。神であるとはいえ人間の肉体を持つイエスは、さすがに空腹。
そこにサタンがあらわれ、「神の子なら、そこらに転がっている石をパンに変えて食べたらどうだ」と、イエスを攻撃したのです。これのどこが攻撃かというと「神の子なら奇跡をおこなってみせろ」というところです。奇跡とは、聖書では「しるし」つまり象徴と書かれています。アイコンはプログラムそのものではありませんが、アイコンによってその先にあるプログラムをうかがい知ることができます。同じように、奇跡自体が目的ではなく、それによって創造者を知るために奇跡があるのです。

その奇跡を「創造者を知る」という本来の目的から曲げて使ってみろ、とサタンはそそのかしたのです。が、イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と旧約聖書を引用してあっさり撃退しました。

ところで、聖書は人間が書き記したものですが、内容は創造者が書かせたものです。つまりキリストは創造者の言葉によってサタンに反撃したわけですが、「よし、それならば」とサタンも聖書を引用してイエスを攻撃してきました。山上に立つエルサレムでもひときわ高い神殿の屋根の端にイエスを立たせ「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」と言ったのです。
しかしイエスは、創造者に従わない者が自分に都合よく創造者の言葉を引用するのを許しません。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と、またもサタンを撃退したのです。

あっさり跳ね返され、サタンの攻撃は露骨になりました。イエスを非常に高い山の上に連れていき、一瞬のうちに世界のすべての国々の繁栄ぶりを見せて「わたしを礼拝するなら、これらをすべて与えよう」と言ったのです。
これはキリスト・イエスにとって、ものすごい誘惑でした。というのも、アダムとエバが創造者よりもサタンを選んで以来、この世界はサタンの支配下にあり、これをとり返すためにキリストは来たのです。しかも、キリストと創造者と聖霊が相談して決めた「人間奪回作戦」は、キリストが十字架で殺されるという内容でした。

(愛そのものである創造者は、そむいた人類が帰ってくるのを待っています。しかし創造者は正義そのものでもあるので、人間は罪があるままでは創造者のもとに帰れないのです。罪というのは「妖怪子泣き爺」みたいなもので、一度背負ってしまうと自分ではおろすことができないのです。誰かにひきとってもらわなければなりませんが、他の人もすでに自分の分を背負っています。そこで、正義そのものであって罪を背負っていない神キリストが人間のところに来ることになったのです。キリストに罪をひきとってもらった人は、全能者との関係を回復できますが、身代わりに罪を引き取ったキリストは、罪の代償である「死」を経験しなければならなくなるのです。
どうしてこんな回りくどいことになるかというと、アダムとエバが自分の意思でヤハウェよりもサタンを選んだ以上、その子孫である人間は自分の意思で、キリストによる「罪の引取り制度」を選択しなければならないのです。創造者には力ずくで人間をサタンから取り返すこともできるのだけど、せっかく人間に人格(ペルソナ、パーソナリティ)を与えたのにその意思を無視するのは、人間を獣とは違う、創造者と人格の交流ができるように創造した意味がなくなってしまうので、あえてそうしないわけです。)

罪がないから本当は死ぬ必要がない(死は罪に対する罰なのです)のに、サタンから人間を取り返すために十字架で殺されようというキリストにとって、サタンが「そんなことをしなくてもゆずるよ」と言ってくれるなら、こんなにいい話しはないのです。
サタンの狙いは、創造者にとってかわることです。創造者とひとつであるキリストがサタンを礼拝することは、サタンの勝利を認めることです。しかもキリストとサタンの取り引きが成立したら、人間の意思とは関係なくなってしまう。
かなりきわどい勝負でしたが、イエスは「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」とみたび旧約聖書を引用して、サタンの攻撃を退けました。

どんな誘惑も通用しないのを見て、やむなくサタンは引き下がりました。すると天使たちが来てイエスに仕えた、と記録されています。そしてイエスは、人々を教えるために世間に出て行くのです。

ところで、サタンは自分の全存在をかけて創造者に挑んでいます。食欲や、おのれの力をためすことや、権力欲、保身、楽をしたいなどなど、神であると同時に人間でもあるキリストに対して、どの攻撃も、効果的かついや~なところを突いています。まるで野村監督(プロ野球)のような攻撃です。
そしてキリストも、神だから当然サタンに圧勝したかというとそうではない。ぎりぎりのところで、創造者の言葉(聖書)によってサタンを撃退することに成功したのです。

ヘブライ人への手紙5章2「大祭司(キリスト)は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」
失恋したことのない者に、失恋の痛手はわからない。出産したことのない男に、出産する女の痛みは絶対にわからない。麻薬中毒になったことのない者に、禁断症状の苦しみはわからない。でもキリストは、人間の弱さを経験したことのない全知全能の神のままでななく、自分も人間となり、悪の誘惑に勝つのがどんなに難しいかを経験したのです。だから、人間の弱さも苦悩もわかるのです。そしてサタンの誘惑に勝つのがどんなに難しいかも経験しました。そしてその中で、聖書の言葉によってサタン=悪を退散させることができるという「勝利の方程式」の手本を示したのです。

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作成:2002年
更新:2003年5月25日

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