新約聖書 第21回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

希望に生きる信仰

マタイによる福音書9章9節~37節より

「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」(18節)

「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(22節)

イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。(28節)

群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(36節)

1.罪人の友 9章9-13

 マタイによる福音書の著者自身が、主に召された時の記録である(*1)。徴税人であった彼は、ユダヤでは罪人と呼ばれ、徹底して差別を受けた。神から最も遠い者と扱われた。当然礼拝の場である会堂に入れなかった。けがれた彼らと、一緒に食事をする者はいなかった。主は彼らと食事を共にしたことでファリサイ派の人々から批判された(*2)。彼らには、世俗はもちろん、宗教的にも救いはなかった。

 当時、ユダヤを支配していたローマ帝国は、現地の者に税金を徴収させた。民衆の憎しみは、同胞を裏切る徴税人に向けられる。ユダヤ人の神の民としての誇りが、異邦人を汚れた者としてさげすんだ。その手先である徴税人は、神に逆らう裏切り者である。だからマタイに対して、まともにロをきいてくれる者はなかった。徴税人は遊女と同じである。―度身を落としたら誰も人間として扱ってくれない。だから彼は、主イエスを中心とした集団が収税所の前を過ぎて行くのを知っても腰を上げようとはしなかった。彼にしてみれば、おおよそ神の国について語るような者は、自分を指差し「あのような罪人になるな、あんな罪人と付き合うな」と言うに決まっていた。

 主はそんなマタイに「わたしに従いなさい」と、人として声を掛けられた。救い主は、文字通りすべての人の救い主である。どんな罪人も救って下さる。医者が、どんな病人でも診るのと同じである。重病人ほど医者を必要とする。最も罪深い者のために、主は来て下さった。

2.新しいものは新しく 9章14-17

 バプテスマのヨハネの弟子が、主イエスの所に来て、なぜ断食をしないのかと問う。彼らはファリサイ人などのユダヤ人指導者のように、主に対して悪意を持っているわけではない。しかしそれまでの宗教的価値観から抜け出せないでいる(*3)。多くの宗教は真面目に道を追求している。旧約聖書を通して創造主である神を知らされたユダヤ人はなおさらである。しかし真の救い主は、人間の宗教的考え方の延長上には居られない。新しいぶどう酒は新しい革袋に、とはそういうことである。徴税人を受け入れる救い主は、人の宗教観の外にいる。逆に言えば、どんな人間でも、既成の宗教観にとらわれないで、自由に主イエスに近づくことができるということである。

3.ギリギリの決断 9章18-26

 一つの話しの間に別の癒しの物語が入っている珍しい出来事である。指導者とはカファルナウムの会堂長ヤイロのことだとマルコ、ルカの福音書で判る(*4)。マタイは、死んだ娘に主が手を置けば生き返ると、父親が願ったと記している。マルコ、ルカでは、死にそうな娘を助けてくれと懇願している父親のもとに娘の死の知らせが届く。絶望している父親に、主は「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われたと記されている。結果として死を解決される主を父親は信じたのである。今月の巻頭言に書いたが、人間は信じろと言われても死を超えることはなかなかできない。だから主の言葉を信じた父親の信仰は、驚くべきものである。マタイにはそのことが印象に残っていたのであろう。そして同時に、主イエスの服のふさ(*6)にでもさわれば病気を治してもらえると信じた女の信仰も、マタイには強烈であった。

 二人に共通していることは、信じなければ絶望しかない。信じがたいことであるが、信じれば希望がわくという事である。そして信じた。

 服に触れれば治るというのは御利益的【ごりやく】な信仰であり、迷信的でもある。しかし、それを信じなければ絶望という状況では、御利益信仰とは言えない。そして迷信のような信仰でさえ「あなたの信仰があなたを救った」と主は評価された。私たちの未熟な信仰を主は受け入れて下さるのだ。ろくな信仰のない私たちにとってこれは救いである。

 自分の罪を知った者が、聖なる神の前に立たされると、絶望しかない。その罪を神が解決して下さると言う。信じなければ絶望、信じれば大きな希望がわく。主を、そして主の十字架を信じるとは、ギリギリの決断である。

4.信じる通りに 9章27-37

 ここに登場する二人の盲人も前の物語と同じである。信じれば希望、信じなければ絶望である。だから主に求めるとは、ちょっとした運を求めるとか、よい暮らしを願うとかではない。受験も就織も結婚相手も、良いに越したことはない、しかしそれで人生が決まるものでもない。真の祈りは、そのようなものを求めることではない。

 主は群衆が飼う者のない羊のような状態であるのを見て、深く憐れまれた。私たちは、主の前に求めるぺき祈りすら知らないのである。

(富津教会月報No.46 2000年3月号より)

発行者注

*1 「主に召された」とは、弟子になるようにと招かれたことを指す。マタイについては用語集も参照。

*2 ファリサイ派にかかると、医者でさえ罪人であった。まして、みずから進んで「けがれた異邦人」と交流しつつその手先となり、神にのみ支配されるべきイスラエルから税をとる徴税人は、けがれた存在だった。ファリサイ派については用語集も参照。

*3 ファリサイ派がイエスに問答をしかけたのは、イエスを言い負かして排除するためだった。ヨハネ(の弟子たち)は、イエスがメシア(キリスト)であるなら従おうと思いつつ、宗教家であれば断食するはずという「それまでの宗教的価値観」の中から質問している。

*4 この記事はマタイ、マルコ、ルカが福音書にそれぞれ記録している。マルコ福音書では5章22~、ルカ福音書では8章40~。

*6 衣服のすそに房をつける習慣があった。→民数記15章38
ただしイエスは、宗教家たちが見栄のために房を大きくすることを批判している。マタイ23章「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。…そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」


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必要により以下の点で、発行者の責任において坂井牧師の文章に手を加えています。
・漢字をひらがなにする。
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・読みやすさのため、句読点の位置を(文意を変えない範囲で)変更する。

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作成:2008年5月

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