新約聖書 第20回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

病気の治療より大切なもの

マタイによる福音書8章23節~9章8節より

イエスは言われた。「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちよ。」(8章26節)

「神の子、かまわないでくれ。…ここに来て、我々を苦しめるのか。」(8章29節)

イエスはその人たちの信仰を見て、中風【ちゅうぶ】の人に「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。(9章2節)

 主の奇跡は人に見せるためではない。私たちが助けを必要としている人を力の限り助けようとするのと同じである。私たちには限界があるが、主にはできないことはない。マルコやルカ(*1)とは、多少記述の違いがある。細かいことは機会があれば学ぶことにして、マタイの記録を中心に読んでいくことにする。

1.自然さえ支配する力 8章23-27

 湖の中ほどで突然の嵐に遭【あ】い舟が沈みそうになれば、誰でも恐怖の念にかられる。そうした中で主は眠っておられた。「主よ、助けてください」と起こす弟子たちに、主は「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」と叱られた。私たちだって、こんな場合大いにあわてる。
 私たちは、自分の身に危害が及んだり苦しみや悲しみが襲う時、当然それから逃れたいと思う。しかし、それ以上に心が痛むのは、愛する者が苦しみに遭うことである。遠藤周作の小説「沈黙」に、キリシタンに信仰を放棄させる拷問の場面があった。拷問を受けるのは本人ではない。すでに転んだ(信仰を放棄した)者を、死ぬような苦しみにあわせる。そして本人に「お前が転ばなければ、あいつらが苦しんで地獄に堕ちることになる」と責める。そうした責めに、どんな拷問でも耐える覚悟をしていた主人公が転ぶと言ってしまう。人は罪人でも、他人が苦しむことは、自分が苦しむよりつらいことがある。最近はいじめのように人が苦しむのを遊びにしている子供が増えている。自分が苦しんだら、関係のない他人も苦しめたくなる。そんな人が増えている。
 神が愛の方であり、私たち一人ひとりに最善をなしてくださると信じた者は、みずからに及ぶ災いを恐れなくなる。嵐で舟が沈むのは、自分の身に起こることである。父なる神様を信じている主イエスはそうした中で眠るほどの平安の中に置かれている。主を信じた者がそこまで右往左往してはいけない。神の御心【みこころ】のままと受けられるはずである。「信ずる者はあわてることはない」(イザヤ書28章16)。
 創造主である神様にとって嵐を静めることなど何でもない。しかし人は、病気の癒し以上に感心する。

2.私にかまわないで 8章28-34

 主が、ガリラヤ湖(*2)の向こう側、異教徒の地に行かれた時のことである。悪霊に憑【つ】かれた者が二人、墓場から出て、主イエスの所に来て「神の子、かまわないでくれ。」と言った。主は、多くの豚を代償として、この二人を助けられた(*3)。その報告を受けた町の人々は、主イエスに、その地方から出て行ってもらいたいといった。自分にかまわないでくれと頼んだ人々と、結局同じである。人々は悪霊に憑かれた者に同情はしていたであろう。その人々が助かったのだから喜ぶべきであるが、自分たちの財産である豚を失ったことが重大であった。人が助かるのはいいが、自分が犠牲になるのはいやと言うのである。こうしたエゴの私たちには、自然保護などは限界がある。公害が減るのはいいが不便になるのはいやなのである。みんなが少しずつ犠牲を払わないと地球はきれいにならない。
 町の人々は、ひとりの人が救われたことより自分たちの生活がおびやかされるのを恐れて、主に出て行ってくれと頼んだ。そして愛の主との真の出会いと、神のもとに帰る機会を失った。

3.癒しより赦【ゆる】し 9章1-8

 中風の者が人々に担【かつ】がれて主の所に連れられてきた。主は「その人たちの信仰を見て」とある。信仰は、私たち一人ひとりが主をどう信じるかが問題である。自分と主イエス・キリストとのかかわりを考え、告白しなければならない。ところが主は、「その人たちの信仰を見て」である。この人たちは、他人の痛みを自分の痛みとして受け取れる人々であった。人の苦しむのを黙って見られない。だから主のもとに運んできた。その愛に主が応えられたのである。
 そして主は人の心のもっとも深い問題を解決される。中風の者に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。御利益【ごりやく】を求める私たちは、なぜ病気を治さないのかと思う。ユダヤ人の多くは、信仰を現世的なものととらえていた。信仰が熱心であれば、生活のすべてが祝福される。罪を犯せば災いが来ると思っていた(*4)。寝たきりの病気になれば、神の前に大きな罪を犯したのではないかと当然考えられる。厳しい律法の中で育った彼らが、病の中で聖なる神の前に罪を考え出したら、限りなくみずからの罪が浮かぶ。そして病気が治らないということは、その罪が神の前に解決していないことになる。だからまず罪が赦されることを願う。その人に、主は罪の赦しを宣言されたのである。それは人間にとって、病気が癒されるよりはるかに根本的な問題の解決である。本人にどれほどの喜びをもたらしたか計り知れない。罪が赦されて、神に受け入れられたことを知るなら、どんな病や不幸も負って生きられる。
 律法学者らの思うように、確かに罪を赦せるのは神だけである。だから主イエスが罪を赦す権威を持っていることが判った時、人々におそれが生じ、またその素晴らしさに賛美がわいた。

(日本同盟キリスト教団富津教会 月報No.46 2000年3月号より)

発行者注

*1 この記事はマタイ、マルコ、ルカが福音書にそれぞれ記録している。マルコ福音書では5章1~、ルカ福音書では8章26~。

*2 現在はティベリヤ湖と呼ばれている、ヨルダン川上流(北)にある湖。イエスはこの西側のガリラヤ地方で教えたのち、エルサレムに向かう。「湖の向こう側」とは東岸を指し、マタイは「ガダラ人の地」、マルコとルカは「ゲラサ人の地」と表記しているが、ユダヤ人が宗教上の理由から忌み嫌う豚を飼っていたことから、異教徒(異民族)であることがわかる。

*3 男にとり憑いていた悪霊は、イエスの権威の前で手も足も出なくなると、イエスの許可を得て男から出て豚にとり憑いた。すると豚(約2千頭いた)は崖からガリラヤ湖に飛び込んで死んだ。

*4 イエスの弟子たちでさえ、盲人に会った時にイエスに「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と質問した。(ヨハネ福音書9章2)


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作成:2008年3月28日

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