新約聖書 第18回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

主イエスの奇跡の意味

マタイによる福音書8章1~13節

イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」(4節)

すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。 (8節)

ここから9章の終わり近くまで、主の奇跡的な業(わざ)が書かれている。マタイによる福音書は、決して奇跡そのものを強調しようとしていない。病気が治ることを宣伝する一部の新興宗教とは大違いである。マタイは、主の降誕、バプテスマのヨハネの出現、そして洗礼、荒野の誘惑の後、ガリラヤでペトロなど4人の弟子を招かれたことを書いている。そして奇跡については、「諸会堂で教え、御国(みくに)の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患(わずら)いをいやされた。」(*1)と簡単に記した後、5章からの山上 の説教に入る。8章は、「イエスが山を下りられると、大勢の群集が従った」と、説教が終わったところから始まっている。

ここから9章までの奇跡も、ただ主の力を示すものではない。主の業を通して、真の救い主とはどんな方かが明らかになるように書かれている。もちろん奇跡を主の尊い業として、素直に受け入れるのも素敵な読み方である。自然の法則にとらわれて奇跡のおこなえない神なら信じても意味がない。
ひとつの奇跡から、多くの説教が生まれる。だから詳しく学んだらきりがない。要点だけを記すことにする。

1.らい病人のいやし 8:1-4

日本も少し前まで、らい病(ハンセン氏病)(*2)については、国も大きな誤解をしていた。おおやけには誤解の解かれた今でも、個々の偏見はなくならない。だから患者は相変わらず肩身の狭い生き方を強いられている。当時のユダヤでは、らい病人は宗教的にけがれた者と見られていた。そしてみずから「けがれている」と叫んで、人が近づかないように警告しなければならなかった。不治に近い病であり、清くされる可能性はほとんどなかった。

この患者は「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。この言葉に、主に対する大きな信頼がある。「御心ならば」は、ただ御利益を求める思いからは出てこない。自分の罪やけがれを知っている者が、それでも神が赦(ゆる)してくださるならという、自分の気持ちより神の意志を尊重している姿勢である。そして「清くすることがおできになります」という言葉。けがれた者を清くするのは神以外にはできない。神ならできるという信頼である。私たちの罪の赦しは、ただ神の心と力にかかっている。

主は、けがれた者に触れられた。人は自分がけがれないように、けがれたものに触れないように気をつける。ことに宗教的な指導者はそうする。真に清い主は、けがれた者に触れて、相手を清くする。

主は、旧約聖書に定めてある規定に従って祭司に清くなったことを証明してもらうようにすすめ、「誰にも話さないように」と言われた。病気を治すという、誰でも飛びつく奇跡に振り回されて、人々が真の救い主を見誤ることのないよう注意された。いつの時代もそうであるが、人々は心の問題よりも体や物に目がいく。そして主のうわさも、その部分が強調されて広まっていった。

2.言葉の力 8:5-13

ここで大切なことは、百人隊長というローマの軍人の願いを主が聞かれたということ。そして外国人であり異教徒であった百人隊長の信仰を、ユダヤ人の信仰より、主が高く評価されたことである。

ユダヤを植民地として支配していたローマ人の中には、ユダヤ人の気質をよく理解しているものがいた。この百人隊長がそうである。「あなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」とは、当時の一般的なユダヤ人の思いを理解した言葉である。神の民であるから清いと誇っていたユダヤ人は、社会的にどんな偉い地位にある人でも、外国人はけがれていると考えていたから、その家には入らなかった(*3)。だから彼は「ただ、言葉をください」と言ったのである。彼は軍人として、言葉=命令がどれほど力があるかを知っていた。人間の言葉でも力があるのだから、主の言葉なら当然力があると考えたのである(*4)。

異邦人の信仰をユダヤ人よりすぐれたものと見、ユダヤ人が救いから追い出されると語ることは、当時のユダヤ社会ではありえないことだった。2章の東の学者の記事に次ぐ、ユダヤ人に強い反発を感じさせる事件である。

人は、言葉を力として認めることがなかなかできない。言葉だけの祈りより、手を置いてもらったり、荘厳な教会堂で祈ってもらったり、立派な衣装を着た祭司に祈ってもらうほうが、力を感じる。だからユダヤ人は、イエスがキリスト(救い主)である証拠を見せてくれと、主に求めた。それに比べると、言葉だけでいいと言った百人隊長は、信仰の本質を知っている。

私たちの言葉にも力がある。私たちは言葉で人を傷つける。言葉で人をなぐさめる。口にはみずからにわざわいを招き、時には他人を死にさえ追いやる。主を信じ、人を生かす言葉がいつも口から出る者になるよう祈りつづけよう。

(日本同盟キリスト教団富津教会 月報No.44 2000年1月号より)

発行者注

*1 マタイ福音書4:23

*2 『らい病』
口語訳聖書では、旧約聖書(ヘブライ語)のツァーラトも、新約聖書(ギリシャ語)のレプラも「らい病」と訳していた。
新共同訳聖書では、ツァーラトは「重い皮膚病」と訳された。ツァーラトは特定の病名というよりも、相当広い意味を持つある皮膚病の症状一般のことらしい。一方、レプラは新共同訳でも「らい病」と訳していたが、1996年の「らい予防法」廃止を契機に検討が進められた。レプラの訳語として何が最適かはいまだ議論があるが、1997年4月以降に販売する分からは暫定的に「重い皮膚病」に改めている。口語訳聖書および新改訳聖書でも同様の方針で検討中である。

*3 外国人はけがれている
選民思想という言葉があるほどであるが、一般に思われているほどにはユダヤ人は排他的ではない。外国人でもユダヤ教に改宗すればユダヤ社会に迎えられたし、おおやけには改宗していない人でも"神(ヤハウェ)を敬う人"として迎えられることもあった。ルカ福音書7章の記録では、ユダヤの長老たちもこの百人隊長を、"神を敬う人"としてイエスにとりなしている。

*4 『軍人』
新約聖書には6人の百人隊長が登場するが、そのうち4人までもイエスを信じている。


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作成:2000年1月

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