新約聖書 第17回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

実を見て真実を知る -山上の説教(10)-

マタイによる福音書7章15~29節

にせ預言者を警戒しなさい。…あなたがたは、その実で彼らを見分ける。(15-16節)

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。(21節)

そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(24節)

イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。・・・権威ある者としてお教えになったからである。(28-29節)


山上の説教の最後の部分である。主はこうした説教を一回だけされたのではない。繰り返し語られたはずである。これらは、山上の説教のまとめということである。

1.実(み)で見分ける 15-20節

今年(1999年)は、オウム真理教をはじめ宗教とは言えないような宗教がマスコミの話題になっている。ミイラ化した死体を生きていると主張するライフスペース、多くの信者から多額な金をだまし取ったと詐欺罪で訴えられている法の華などである。客観的に見るといい加減だとわかるのに、信者にとっては、どれも真理であり、教祖たちは神の代弁者と信じている。
主イエスは、「偽預言者を警戒しなさい」と言われた。彼らは羊の皮をまとった狼である。偽物というのは、本物と見分けがつかないから「偽」である。だからだまされる。素直に信じることは大切である。主も「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(*1)と言われた。また有名な聖歌の一節は「ただ信ぜよ。ただ信ぜよ。信じる者は皆救われん」と歌っている。しかし、知らずに信じるのは盲信や、狂信に通じる。神は、ご自身に似せて人を造られたとき、理性も与えられた。何が正しいことか、何が間違っているか、考えるのは大切である。ことに宗教は、本来自分の生き方を左右するものである。正しいものに出会わなければ充実した人生は送れない。誤ったものを信じれば、一生が台無しになる。
オウムの場合など、いわゆる頭のいい優秀な若者が巻き込まれている。今日本人は、宗教的に無知になっている。小さいときから宗教に接する機会が乏しい。親が神仏に手を合わせる姿を見て育った子供は、人を超えた存在があることを知って大きくなる。見えない存在について、意識しなくても、心の底で考える。だからある年齢になって、物質に満たされながらも、何か足りないことがあるのに気がついて、宗教を求める。その時、自分を神だの、天の声を聞く者だのと言うのは、偽物であることが判る。さらに幼子(おさなご) の素直さは、ご利益(ごりやく)を求めない。

人間的に魅力ある宗教であっても、その実(み)に注意しなければならない。人を殺(ポア)して救ったという宗教、修行と称して多くの金を集める宗教、狂信的になり家族を不幸にする宗教、そこに真実はない。
「このように、あなたがたはその実(み)で彼らを見分ける」。

2.父と主イエスの御心とは 21-27節

信仰的に立派で、尊敬される者が、父なる神の御心を行っているとは限らない。主は、御名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇跡をおこなった者を、天の御国で、全く知らないと言う、と言われた。これらの事ができれば、誰からも立派な信仰者と尊敬されるはずである。それを主は知らないと言われる。では父の御心とは何であろうか。

テモテへの第一の手紙には「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人のあがないとして御自身を献げられました。」(*2)とある。神が望まれていることは、すべての人がみずからの罪を認め、イエス・キリストを信じて救われることなのである。宗教的に立派な業(わざ)ができることではない。
さらに主の言葉は、聞くだけでは意味がない。主は続けて、「わたしのこれらの言葉を聞いておこなう者は、岩の上に家を建てた賢い人に似ている」と言われた。
ここでいう賢さは、頭の良い悪い、成績の良し悪しは関係ない。神の基準である。順調な時には、賢い人も愚かな人も区別がつかない。逆境の時に、主の言葉を自分のものとしている人は強い。言葉は、実行されて初めて力になる。言うだけ、聞くだけは、誰にもできる。主の言葉をおこなう人は、それを自分のものにしているということである。主を信じる者には、主がそれをおこなう力も与えてくださる。

3.権威ある言葉 28-29節

当時のユダヤ人指導者らは、「昔の物にこのように書いてある。有名なラビ(教師)誰々はこう言っている」と、先達の言葉を引用して、語ることを権威づけて教えた。私たちが有名な人の発言を引用して、説得力を高めようとするのと似ている。
すでに学んできたように、主は「昔の人はこう言っている。しかしわたしはこう言う」と語った。当時のユダヤでは、神が与えてくださった律法に「私はこう言う」という言い方は考えられなかった。主は、神の子としてごく自然に語られた。それに群集は驚いたのである。今も主は、私たち一人ひとりに、「わたしは言う」と語りかけておられる。主のお言葉に耳を傾けよう。

(日本同盟キリスト教団富津教会 月報No.43 1999年12月号より)

発行者注

*1 マルコ福音書10:15

*2 テモテへの手紙一2:4-6


このページの著作権は坂井栄一牧師に、発行者注の内容と誤字等の責は発行者にあります。

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作成:1999年12月

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