新約聖書 第16回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

律法の中の律法 -山上の説教(9)-

マタイによる福音書7章1~14節

人を裁(さば)くな。あなたがたも裁かれないようにするためであ  る。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量(はか)る秤(はかり)で量り与えられる。(1-2節)

神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。(6節)

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。…このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。 (7-8,11節)

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。(12節)

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。(13節)


山上の説教は、単なる戒律ではない。これを戒律と受け取るなら、守ることのできる者はいない。神の無条件の愛を知った者、あるいはその愛を受けると、これらの言葉の真の意味が理解でき、受け取り方もわかるようになる。

1.人を裁くな 1-5節

井戸端会議といえば、そこにいない人の悪口です。サラリーマンは、仕事が終わると、飲みながら上司の批判をしてストレスを解消します。私たちは人の批判をするのが好きです。他人の欠点はよく見えます。しかし主は、まず自分の欠点を取りのぞけと言われます。そうすれば、目がよく見えるようになって他人を的確に批判できるとは言われません。真に自己の欠点を知る者は他人を裁かなくなります。自分に寛容で他人に厳しい人は、真の自分を知らない人です。そして他人に厳しい人は、人からも厳しい目で見られます。他者に優しい人は、人からも優しく迎えられます。私たちは、何よりも聖なる神の前に欠点だらけなのに、愛の主は限りなく優しく私たちを受け入れてくださるのです。

2.豚に真珠 6節

「豚に真珠」ということわざは、ここを語源としています。価値のわからない者に高価なものを与えても何の意味もないということです。そして、神の無限の愛も、限りない赦(ゆる)しも、価値を理解しない者には、文字通り豚に真珠なのです。

3.求めよ、さらば  7-11節

「求めよ、さらば与えられん」というのも有名な言葉です。聖書の中には熱心に求め、祈ることの大切さを教えているところが数カ所あります。ここでは、幼子(おさなご)が父に求めるように、主なる神を信頼して求めることを教えています。そして人間を例にし、悪い者であっても自分の子供にはよい物を与えることを私たちは知っている。まして私たちの天の父はなおさら求める者によい物をくださらないはずはないのです。そして、父として最善の物を与えてくださるとは、私たちが安心して祈り求めることができるということです。子供は、興味のあるものは何でも欲しがります。真に子供を愛する賢明な父親は、子供が求めるからといって何でもすぐ与えるとは限りません。時には子供の成長にあわせて与え、子供が無知から、危険な物や不必要な物を求めるときは与えません。そのように神の前に無知な私たちは、時には不要な物を求め、時にはわがままな祈りをささげます。父である神は、愛をもって今必要な物を与えてくださいます。だから私たちは、安心して求めることができるのです。もし神が、何でも願いをかなえてくれるアラジンの魔法のランプの精のような方であったら、自分勝手な欲に満ちた願いばかりで人の世はほろびてしまうでしょう。そしてただ願いをかなえるだけの存在は、神ではなく人の奴隷なのです。

4.律法の頂点  12節

「これこそ、律法と預言者である」律法と預言者とは、旧約聖書全体を意味します。主イエスは、この教えこそ旧約聖書のいましめの結晶、黄金律であると言われるのです。旧約の律法は別のまとめ方をすれば「神を愛することと隣人を愛すること」になります(*1)。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にしなさい」とは、一見宗教的ないましめではないように見えます。しかし愛の主は、私たちを愛の対象としてお造りになりました。そして人を神に似たものにし、人も神を愛し隣人を愛するものに造られたのです。ですから人を愛することは、何より大切ないましめです。

現代は、自分のことばかり考えて人のことをまったく考慮しない人が増えています。そうした面でも、人がますます神から離れている時代です。

そして「人にしてほしくないことは、人にもしない」というのも大切なことです。真の愛は、押し付けでなく、その人の気持ちで考えるということです。

5.狭い門から入れ 13-14節

高校生の頃、アンドレ・ジイドの「狭き門」という長い小説を感激して読んだことを思い出しました。内容についてはほとんど忘れてしまいました。

日本人には、和をもって尊(とうと)しとする文化があります。周囲の人と同じことをして波風立てないのが、生き心地がいいのです。これは、いつも広い道を行く思想です。

主は、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われます。

みんなが進む道が正しいとは限りません。否、安易な道が多いのです。真理を求める者は、狭い道を歩まなければなりません。人の顔色を見ていては、神は見えません。人生を歩む上で疑問を持ったこと、大切だと思ったことをおさえてしまう弱さを、主に取り去っていただきましょう。それは「求めよ、さらば見いださん」という道でもあります。

(日本同盟キリスト教団富津教会 月報No.41 1999年11月号より)

発行者注

*1 マタイ22:36-40ほか


このページの著作権は坂井栄一牧師に、発行者注の内容と誤字等の責は発行者にあります。

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作成:1999年11月

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