新約聖書 第14回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

信仰に隠された偽善 -山上の説教(7)-

マタイによる福音書6章1~18節

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報(むく)いをいただけないことになる。(1節)

だから、あなたはほどこしをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。(2節)

祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。(5節)

断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。 (16節)


「見てもらおうとして、人の前で善行(ぜんこう)をしないように注意しなさい」という1節の言葉は、2節のほどこし、5節の祈り、16節の断食のすべてにかかわることです。ユダヤ人はこの三つを善行の重要事項として積極的に行っていました。しかし人は最も宗教的な行動を取るその時ですら、偽善を捨てられない罪人なのです。主イエスの鋭いまなざしは、人の心の底にひそむ偽善を的確に見破ります。だから人は、みずからの力で義人になれない(*1)のです。

1.ほどこしについて 2-4節

旧約聖書と新約聖書の間の時代に書かれた信仰の参考書ともいえるものにトビト記があります(*6)。その12:9に「慈善の業(わざ)は、死を遠ざけ、すべての罪を清めます。慈善を行う者は、幸せな人生を送ることができます」とあります。主の活躍された1世紀のユダヤ人たちは、こうした伝承的教えを大切にしていました。それで当時のユダヤ人たちは、積極的にほどこしを行いました。主は、ほどこしを偽善と言っているのではありません。大切なことです。今でも貧富の差の激しい回教諸国やカトリックの国では、ほどこしが積極的に行われています。

ユダヤ人がほどこしをする第一の理由は、罪を清めるためでした。いくら徹底して律法を守ろうとしても罪は犯してしまうものです。そんなとき、罪を清める業があれば心配はいりません。ですから、ほどこしは自分のためでした。のちに使徒パウロは「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも……愛がなければ、わたしに何の益もない」(*2)と言っています。ユダヤ人のほどこしは愛のないものでした。

しかも、いつの間にか多額のほどこしをするときには、それを人の前で行うようになりました。ラッパを吹くといわれるほど、人々の目に付きやすい会堂や通りで行ったのです。周囲の人々はほめたたえます。それでほどこしをしたことの報いは受けてしまうのです。

2.偽善の祈り 5-8節

同様にユダヤ人指導者らは、祈るときにも人の目に付くように祈りました。なにも突然大通りの角で祈り始めるのではありません。当時のユダヤ人は1日3回、午前9時、正午、午後3時に、どこにいても祈る習慣がありました。その時刻に、目立つところにいればいいのです。生活に追われている庶民は、そうした時形式的に短く祈ったでしょう。しかし偽善者らはそうではありません。時間をかけて朗々と祈りをささげたのです。当然周囲の民衆は、彼らを尊敬しました。ですから人々に敬われたいという彼らの本当の願いは、祈るそのときに報いられると、主は言われたのです。

主は、祈りは父なる神への語りかけだから人の前で行うなと、教えられました。もちろんこれは個人の祈りです。教会の礼拝の中などでささげられる祈りは、そのときの会衆を代表してささげられるものです。ですからみんなのことを考え、誰でも「アーメン(その通りです。真実です)」と言える祈りでなければなりません。

続けて教えられた主の祈り(*3)は、次号で学ぶことにします。

3.見せる断食 16-18節

旧約聖書では年一回、罪の悔い改めのための断食を定めています(*4)。その後ユダヤ人は、年に数回、国民的断食の日を定めました。主イエスの時代には、断食自体に功徳(くどく)があると考えられ、ファリサイ人は一週間に2度、月曜日と木曜日に断食をしていました。この日は、市の立つ日でもありました。ですから、みずからの敬虔さを人々に見せるのには絶好の日であったのです。いかにも断食をしているとわかるような雰囲気で町に出たのでしょう。

主は、祈りを集中するため断食も必要であると言われましたが(*5)、すべての行為は神の前になされるものです。ユダヤ人はいつの間にか人に見せるためにこうした行為をするようになっていました。

考えてみますと、私たち(クリスチャン)も一緒に祈るとき、相手や周囲の人を気にし、聞かせる祈りをしてしまいます。また教会の中で敬虔な人と言われたらうれしくなります。いつも神でなく人を意識してしまう罪人です。わたしたちはそんな罪人だから、主の十字架がなければ決して救われないのです。

(日本同盟キリスト教団富津教会 月報No.40 1999年9月号より)

発行者注

*1 ローマの信徒への手紙3:10

*2 コリントの信徒への手紙一13:3

*3 マタイによる福音書6:9-13

*4 レビ記16:29-31

*5 マタイによる福音書17:21

*6
「旧約聖書と新約聖書のあいだの時代」
旧約聖書が扱っているのは紀元前400年代まで。これ以降、新約聖書のキリスト誕生の記事(紀元前7~4年)まで、旧約聖書と新約聖書のあいだには400年以上の時代が経過している。
「トビト記」
聖書は多くの巻物から成立しているが、どの巻物を聖書の正典とするかは、宗派やユダヤ教において考えがことなっている。トビト記は、カトリックなどでは正典(聖書を構成する書)に数えているが、プロテスタントでは外典(正典に準じるが聖書には含まれない、信仰の参考になる書)と考えているもののひとつで、敬虔なユダヤ人トビトの物語。新共同訳聖書の、旧約聖書続編が付いているものに収録されている。


このページの著作権は坂井栄一牧師に、発行者注の内容と誤字等の責は発行者にあります。

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作成:1999年9月
更新:2000年11月14日

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