新約聖書 第13回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

律法を超えて -山上の説教(6)-

マタイによる福音書5章33~48節

「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。」((33-34節)

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(38-39節)

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(43-44節)

1.誓うな 33-37節

主は、私たち人の小ささをよくご存知です。神の偉大さと自分の小ささを知った者は、主の名において誓うということはできません。主イエスが言われるように、私たちは自分の「髪の毛一本すら、白くも黒くもできない」者です。まして自分の心をコントロールできません。現在はっきりしていること以外は誓うことはできません。

2.目には目 38-42節

「目には目を、歯には歯を」とは旧約聖書で命じられています。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」(*1)。これはハムラビ法典にも定められており同態復讐法と呼ばれます。今から思うとずいぶん残酷な戒めに思えます。しかしこれは、人の罪をエスカレートさせないための戒めなのです。

主は「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われましたが、私たちは右の頬を打たれたら、相手の右の頬を打ちかえすだけでは気が済みません。一つ打たれたら二つ三つ打ち返してようやく気持ちがおさまるでしょう。目をつぶされるようなことがあれば、それが両目だったりしたら、相手を殺してやりたいくらい恨むでしょう。余分な仕返しをすれば、今度は相手がおさまりません。そして互いの罪は増していきます。

そういう人の罪の性質を知っておられる神は、「目には目を、歯には歯を」というおきてを定められたのです。やられただけやり返して、気持ちをおさめることでけりをつけ、平和な生活に戻すためでした。出エジプト記でも細かな法律が出てきます。しっかり読むと、十分納得のいく内容です。

しかし、主はさらに上を行く生き方を教えられます。一読すると凡人にはとても守ることのできない教えです。「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」とは、人に打たれたらじっと耐えよというのではありません。そのことは次に続く、上着の教えと1ミリオンの教えではっきりします。

ユダヤでは上着は一枚の布でできており、貧しい人には夜具にもなる大切なものでした。「もし、隣人の上着を質に取る場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」(*2)と定められています。ですから上着を質草にとった場合、お金が戻ってこなくても夕方には上着を返さなければなりません。だれも奪えない権利と言ってよいでしょう。

またローマ帝国の支配下にあった国々では、ローマ兵に強制されて荷を負わされた場合、1ミリオン(約1.5km)は荷を負ってその兵士と共に行かなければなりませんでした。

ところが主は、自分の権利を放棄して上着を相手に渡せ、義務である1ミリオンを超えて相手と共に歩めと言われます。よく考えると、誰も奪うことのできない上着を与え余分な1ミリオンを歩くのというのは、強制されてでもしかたなくでもなく、自分の意思でやるのです。そのとたん、気持ちは相手に勝っているのです。こちらがしてあげる立場です。気持ちのいいことです。相手の気持ちの上を行って、相手を大きな心で包んでしまう、それが主の教えの真意ではないでしょうか。我慢して、無理して主の教えを守るのではなく、積極的に喜んで行うのです。

右の頬を打つ者に左の頬も出すことができるのは、相手をそのまま受け入れられるときです。自分の子供が幼い時、何か親に殴りかかって来た場合、そのまま受け入れてやりはしないでしょうか。叩かれて他の頬を出せるのは、相手を愛し、そのまま受け入れられるときです。主は、限りなくわたしたちを受け入れてくださいます。

そして心から相手のことを考えて反対側の頬を出した瞬間、手で打ち返すより大きなショックを相手に与えるのではないでしょうか。

主は、人がどれほど罪を犯しても、主を裏切っても、限りなく愛していてくださいます。主を心の中にお迎えする者は、主のように自分を殺す者の罪さえ赦(ゆる)せるようになるのです。

3.敵を愛しなさい 43-48節

暖かな言葉だと、平和な日本に暮らしている者は思うのではないでしょうか。今でもそうですが、聖書の舞台となった中東は、いろいろな民族が対立しており、昔から戦いが絶えません。そして敵は常に殺さなければなりません。敵を生かしておくと、次は自分が殺されます。旧約聖書にも相手を徹底して殺戮する場面が幾度か記録されています。今の私たちにはついていけません。

そうした状況での「敵を愛しなさい」です。よい言葉だなと感心している場合ではありません。こちらが殺される覚悟がないと、出てこない言葉です。救い主が来られる前の旧約聖書では、律法の基準が人間でした。しかし神の子が来て、人が神の子として父なる神に迎えられるようになると、人の生きる基準は神の高さを求められます。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と、主は言われるのです。のちには使徒パウロも「ついには、わたしたちは皆、・・・成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(*3)と、キリストの高さまで成長するよう勧めています。

(日本同盟キリスト教団富津教会 月報No.39 1999年8月号より)


*1 レビ記24章19節-20節

*2 出エジプト記22章25節-26節

*3 エフェソの信徒への手紙4章13節


このページの著作権は坂井栄一牧師に、発行者注の内容と誤字等の責は発行者にあります。

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作成:1999年8月
更新:2000年10月6日

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