新約聖書 第12回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

律法を完成する主 -山上の説教(5)-

マタイによる福音書5章13~32節

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。…(中略)…あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。

1.地の塩、世の光 13-16節

「あなたがたは」というより「あなたがたこそは」と強調された表現です。山上の説教を聞いている人々は、4章の終わりから5章1節にあるように、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者などあらゆる病人と、そうした病人を連れてきた人々です。人間的には、幸いな人々ではありません。それらの人々を主はそのまま受け入れ、「心の貧しい人々は、なんと幸いなことか」と、感動を持って語られたのです。そして主が、幸いであると感動された人は、そのまま幸いを得ると学びました。そうした人々に今度は主は、「あなたがたこそは、地の塩である」と言われました。塩は、おもに味付けと防腐に用いられます。他の素材の味を引き立てたり、腐らせたりしないために必要です。塩が塩として目立つ料理は、食べられません。塩はそれ自体のために味が必要なのではありません。他の物のために存在するのです。ですから塩に味がなくなったら存在する価値はありません。

一方、光は目立ちます。夜に旅する人には、光が必要です。暗い中での光は、人に希望と励ましを与えます。しかし光は、人に隠しておきたい汚れたところも見せてしまいます。

主イエスの来られたことについてヨハネは「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(ヨハネ福音書3:19-20)と記しています。光は他人に見てほしくない不正を明らかにします。罪の世にあって、罪に飲み込まれず、正義を貫くという意味でも主にある者は世の光です。キリストにある者は、その生き方のすべてを通して神を人々に示すのです。

さらにここで主は、「あなたがたは地の塩になれ」とは言っていません。「あなたがたこそは、地の塩、世の光である」と宣言されています。自分のような者は世の役に立つことも、目立つこともない。むしろ人々に邪魔にされていると思う人々に、無くてはならない存在、主を証しする大切な存在であると言っておられるのです。

2.主と律法 17-20節

ユダヤ人指導者からは、主イエスは旧約聖書に反する者のように見えました。しかし主は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と言われました。律法と預言者とは、旧約聖書を指します。キリストは、人々を律法から解放するために来てくださいました。それはローマの信徒への手紙や、ガラテヤの信徒への手紙を読むと明確になります。

しかしまた、主は、律法を真の意味で完成するために来られたのです。山上の説教の主の教えは、律法を曲げてしまった当時のユダヤ的解釈を正すものです。「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とは、主が旧約聖書を大切にさていることの宣言です。それで主の教会は、旧約聖書も新約聖書と同様、神の言葉として大切にしているのです。

「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入ることができない」との主の言葉は、律法をただ杓子定規に厳格に守れということでは。ありません律法を神が与えてくださったときの、規準に戻って守れということです。

3.みんな人殺し 21-32節

主は、具体的な律法のとらえ方について教えてくださいます。
「『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」と主は言われました。
大変なことです。幾度も人を傷つけている私たちは、神の前には殺人と同じ罪を犯しているのです。

姦淫の問題も同様です。「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。」と、主は言われます。

主イエスの周囲には、多くの「心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々」がいました。同時に、義に富んだファリサイ派の人々、律法学者らもいました。彼らは主の言葉尻をとらえて訴える口実を得ようとしていました。旧約聖書の戒めを忠実に守り、民衆から尊敬されていた人々です。彼らは「自分たちは神に受け入れられる義人である。罪人とは違う」と誇りを持っていました。
そういう人々に、主は「お前立ちも人殺しであり、姦淫を行う者ではないか」と痛烈に言われたのです。人の心を見られる神の前には、律法の表面だけを守っていても意味はありません。心が問題です。だから聖書は、「正しい者はいない。一人もいない」(ローマの信徒への手紙3:23)と宣言しているのです。

(日本同盟キリスト教団富津教会 月報No.38 1999年7月号より)


このページの著作権は坂井栄一牧師に、発行者注の内容と誤字等の責は発行者にあります。

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作成:1999年7月
更新:2000年9月22日

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