新約聖書 第10回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

神を見る人 -山上の説教(3)-

マタイによる福音書5章7~8節

主イエス・キリストの教えの基本といえる説教が続きます。主は「なんと幸いなことか」という感嘆の言葉で、ご自分の周囲にいる人々を祝福されました。主は、病気であり、貧しく、神の義には遠い人々をご覧になって、そのまま幸いであると感動されているのです。主は、人間的には不幸に見える一人ひとりをそのまま受け入れて、なんと幸いなことかと祝福してくださるのです。その意味では、最初の四つの祝福は受動的な祝福と言えるでしょう。
祝福はさらに続きますが、5番目からは積極的な内容になります。

1.共に苦しむ 5:7

「なんと幸いなことであろう。憐れみ深い人々は」と主は言われます。旧約聖書で「憐れみ」とは、相手の立場で物を見、その人の身になって考え、その人の感じるように感じるということです。新約聖書では「一緒」という言葉と「苦しむ」という言葉が合わさった単語です。その人と一緒になって苦しむというのが、憐れみの元の意味です。
そして憐れみのもう一つの意味は、隣人の過ちを赦すということです。
どちらも大変なことです。私たちは自分が一番大切です。他人の気持ちを心から大切にすることは難しいのです。困っている人がいると、気の毒に思って同情はしますが、自分の全財産や全時間を費やして助けるなどしません。
人を赦(ゆる)すことも、なかなかできません。人が自分に罪を犯せば仕返しをしたいと思います。皮肉を言われたら言い返す。殴られたら殴り返す。それも自分が受けた痛みより強くやり返そうとします。私たちは、表面では自分でやさしいと思う者でも、心の底には自己愛と復讐心がある罪人です。
神は憐れみの方です。そして憐れむ者を祝福されるのです。しかし私たちに、真の憐れみや、赦しがなければ祝福されないのでしたら、私たちは幸いから遠い存在になってしまいます。
18章に記されていますが、使徒ペトロが、人が罪を犯したとき何回赦せばよいのか主に尋ねると、主は限り無く赦すことを教えられました。それは私たちが、神から一生かかってもつぐなえない罪を赦していただいているからです。自分の罪は小さいと思っても赦す側に立つと赦すことの難しさが分かります。すると私たちの罪のすべてを赦す神の赦しの心がどれほど大きいかが分かります。人を赦せない者は、自分の罪が赦された実感を知らないのです。それは赦されていないのと同じです。
人を憐れむのと、自分が神の憐れみを受けるのとどちらが先がと問われたら、間違いなく憐れみを受けることが先です。私たちは、神の憐れみ、愛を知って、初めて人と共に苦しみ、人を赦すことができるのです。

2.神を見る者 5:8

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)とあるように、神を見た者など主イエスを除いて誰もいません。だいたい罪に汚れた小さな人間が無限の神を見ることはできません。
百聞は一見にしかずという言葉がありますが、人はどこまで本当に物を見ることができるのでしょうか。雄大な景色に感動した時でも、それは大きな自然の景色全体の一部を自分のいるところから、自分のいる時刻に見たに過ぎません。それでは小さな物なら見えるかというと、これも限界があります。手に乗る一枚の木の葉でも、表面を見ているに過ぎません。顕微鏡で見れば、肉眼では見えなかった細胞が見えます。電子顕微鏡を用いれば見える範囲はさらに細かくなります。今では物によっては原子の配列まで見えるようになりました。それでも限界があります。見ているようで私たちの見るのは物事のほんの一部でしかないのです。
人間の場合はどうでしょうか。外見がその人なのでしょうか。それなら視力に障害のなる人は、誰も認識できないことになります。「人を見る」とはあまりよい言葉ではありませんが、人の内容を見るということです。まして「神を見る」とは、肉眼ではなく、神の本質を知ることです。
ところで、神を見ることのできる心の清い人々とは、どんな人でしょうか。罪人である人は、生まれた時から本当に清いとは言えません。ですから神を見ることのできる者など一人もいません。しかしこの祝福の教えの前半にあるように、主イエスは、心の貧しい人々をそのまま受け入れてくださるのです(3節)。義を得ることができず、飢え渇いている者に、ご自身の義を満たされるまで限りなく与えてくださいます(6節)。キリスト者は、自分の力ではなく、罪人のすべての罪を負ってくださるキリストによって清くされるのです。ですから、やがて顔と顔を合わせて神にお会いすることができるのです。それだけではありません。日々の祈りにおいて、神にお会いし、神を知っていくのです。神と共に歩む生活を始めた人は、第三者が見る時、その人に神の輝きを見るのです。

いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
(ヨハネの手紙一4:12)

(日本同盟キリスト教団富津教会 月報No.36 1999年5月号より)


このページの著作権は坂井栄一牧師に、発行者注の内容と誤字等の責は発行者にあります。

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作成:1999年5月
更新:2000年3月23日

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