新約聖書 第9回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

逆説的と思える幸せ -山上の説教(2)-

マタイによる福音書5章5~6節

人間的には幸福とは思えない人々に、主が「なんと幸いなことか」と感動をもって語っている言葉が続きます。

1.地を受け継ぐ人々 5:5

「柔和な人々は、なんと幸いなことであろう」と主は言われます。柔和(にゅうわ)とは優しさです。弱さではありません。主イエスは、十字架にお掛かりになる時、ロバの子に乗ってエルサレムに入城されました。その時、「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」(マタイ21:5)と、記されています。主は、人のために徹底してご自分を低くされた柔和な方です。しかし、ここで主が語りかけている人たちは、みずから進んで柔和に生きている人々ではありません。ローマ帝国の圧制の下で押さえつけられている人々です。
強大な政治力と軍隊の前に、抵抗する力もなく苦しめられ、ただ黙々と苦しみに耐え、柔和にならなければ生きていけないのです。主は、苦しみにあえぎ、柔和にならざるを得ない人々、みずからを決して幸福だとは思えない人々に、「なんと幸いなことか」と言われたのです。
主は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしは柔和で謙虚な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい、わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(*1)と、言われました。くびきとは、二頭の牛の首を一緒にはさみ、協力して働かせるための道具です。主は下僕となって人に仕え、人の罪や苦しみをすべて負って十字架で死なれました。栄光に満ちた神の子が、人と同じところに降ってくださったのです。
私たちが人生の重荷にあえぐ時、主はその重荷を共に負って一緒に歩んでくださいます。重荷は主の肩にかかります。ですから私たちは耐えられないようなつらさを負い、引くことのできない重荷があっても人生を歩むことができるのです。
神の子ご自身が柔和な方として、柔和にならざるをえない人々を招き、共に歩んでくださいます。主が招いてくださるから、柔和な人々は幸いなのです。
苦しみを経験することによって、人はこの祝福がわかります。そして地上で生きる祝福と尊さを知っていくのです。地を継ぐとは、そういう意味でしょう。試練を避けたら、本当の生きる意味も喜びもわかりません。
苦しみを甘んじて受け、抵抗もできないほど打ちのめされている人は、この主の宣言を自分のこととして、主と同じように感動をもって受け入れることができるのではないでしょうか。

2.義に飢える 5:6

主は、「義人[ぎじん=正しい人]は、幸いである」とは言われませんでした。山上の説教を聞いている人々は、義という言葉に敏感でした。当時、人々は、義人でなければ神の国に入れないと教えられていました。神に対して罪を犯すから病気や貧しさの中に置かれているのだと責められました。聖なる神の前に、みずからの心を照らせば、いくらでも心の汚れがわいてきます。罪があるのです。

彼らの多くは、病人であり、悪霊(*2)につかれていました。何とか義を得たいと、熱心に求めました。しかし、熱心な一部の宗教家を除いて、生活に追われる庶民の多くは、神の律法(戒律)のすべてを守ることはできません。ですから義に飢え渇いていたのです。飢え渇きという言葉も、今のわが国のように食物の豊かな国に住んでいるものには実感がわきません。彼らの住むところは、数年に一度は飢饉が来るような厳しい自然環境でした。飢饉がくれば人が死にます。飢えるというのは、食物で言えば、そのような死を連想させる言葉です。彼らは、求めても得られない義に枯渇し、霊的に瀕死の状態でした。どんな宗教も、彼らの心に救いは与えられないような情況でした。
主は、そのような人々に「義に飢え渇く人々は、なんと幸いなことか」と言われたのです。
ガラテヤの信徒への手紙3章24に「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」という言葉があります。私たちが、神によって真に救われるためには、まず罪人であることを認めなければなりません。だから神の律法は、私たちに罪を教え、キリストに導く養育係であるというのです。
当時の宗教的な指導者である、律法学者やファリサイ人(*3)は、自分たちは律法を守る義人であると自負していました。そして主が罪人と食事をともにすると、汚れに染まる者と決めつけました。自分の罪に気づかず、みずからは義人であると思う者を、主は偽善者と呼び、厳しく警告しました。
主の周囲にいて、説教を聞いている人々は、自分が何の義も持ち合わせていないことを知っていました。主はやがてすべての人々の罪を負って十字架の上で死んでくださいます。そのことを信じる者は、皆、義と認められます(*4)。キリストによる義によって満たされるようになるのです。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたという言葉は真実であり、そのまま受け入れるにあたいします。」(テモテへの手紙一1:15)。だから、みずから義に飢え、罪人であることを知っている人々は、限りなく幸いなのです。

(日本同盟キリスト教団富津教会 月報No.35 1999年4月号より)

発行者注

*1 疲れた者、重荷を負う者は、・・・

マタイ福音書11章28-30

*2 悪霊(あくれい)

神の支配のもとで人に働きかける天使の対極のように、悪霊は悪魔の支配のもとで人に働きかけ、神への信仰から人を引き離そうとする。マルコ5章には、悪霊に取りつかれたために、神が与えた健康な体を傷つけ続ける錯乱した男が出てくる。

*3 ファリサイ人

ファリサイ派の人。学識と人徳があり、律法に従う生活を何より大切にする生き方は、人々から尊敬されていた。しかし行きすぎた律法主義と、聖書に書いてある律法そのものよりも伝統的な解釈を大事にする姿勢を、イエスは激しく非難した。

*4 そのことを信じる者は、皆、義と認められる

参考:ローマの信徒への手紙3章28、ガラテヤの信徒への手紙2章16、フィリピの信徒への手紙3章9、他


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作成:1999年4月
更新:2000年3月2日

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