新約聖書 第8回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

逆説的と思える幸せ -山上の説教(1)-

マタイによる福音書5章3~4節

前回記したように、山上の説教を聞いていたのは、病気や障害のある人、そしてその家族などである。そういう人々を見て、主イエスが語られた説教である。他人から見ても自分でも、決して幸福だとは思わない人々が、救いを求めて主の周囲に集まっていた。

1.悔い改めよ 5:3

この文は感嘆文である。主はご自分の周囲にいる人々を見て「なんと幸いなことか、心の貧しい人々は」と、語りだされたのである。平地の説教といわれるルカによる福音書6章では、端的に「あなたがた貧しい人々は、幸いである」と記されている。
貧しい人々や、悲しんでいる人々が幸いなわけがない。それで昔から、神の前に無一物であることを知っている信仰の篤(あつ)い人、というような解釈がなされてきた。しかし聞いている人々は、敬虔で立派な人人ではない。確かに当時、障害や病気、経済的貧しさなどの不幸は、本人や親たちが神の前に犯した罪の結果であると教えられていた。だから罪を赦されたいと願っていた。しかし何より現実の病気を治して欲しいのである。幼い子供までが働いた時代である。病人や障害者がいれば、家族全員が食べていけない。そんな中で長患(ながわずら)いをしている者がいれば、最初は何とか面倒をみようと思っても、最後には重荷になってくる。早く死んでもらいたいとさえ思うようになる。そういう状態が心の貧しいことである。どう考えても幸いではない。ところが主は、そのような人々を見て、感動したからこそ、「心の貧しい人は何と幸いなことか」と表現されたのである。目の前に感動するような相手がいなければ感嘆詞は出てこない。
主はすべての人を救うために来られた。神の子主イエス・キリストが感動して「幸いである」と宣言されると、そこに幸いが始まるのである。それは人間的な幸不幸の基準とは全く異なる幸いである。一時的に幸福になっても、やがて消えてしまう幸せとも違う。キリスト教の歴史を振り返ると多くの殉教者が出た。自分の命が危機に瀕しても失われることのない幸せを彼らはつかんでいた。使徒言行録を読むと、初代教会(*1)の人々が、家屋を売り払って一ヵ所に集まり共同生活をした事が記されている。エルサレムでキリスト者になることは、その社会で生きていけないほどの迫害を受けた(*2)。住み家を変えて一緒に生きなければ、信仰をたもてないのであった。信仰を持つとはこの世的には不幸になることであった。しかし、キリストを知ることは、何を失ってもよいほど素晴らしいことである。持っている人さえ、そのすべてを捨てられるほどであるから、貧しい者は誰でも主を信じ、幸いな状態になれる。
そして主が感嘆するほど幸いなのは、天の国が約束されているからである。4章17節で主は、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と福音を語り始められた。天の国とは神の国、神の支配が始まることである。
人間が自分の罪から解放され、愛である神を中心にした生きかたが始まるのである。肉体が死んだ後に行く天国を意味するだけでなく、地上の生活が神と共にあゆむ素晴らしい生き方に変わってゆくのである(*3)。他人はどうであろうと、自分の欲望にとらわれない生き方ができるのである。自分のような心の貧しいものは、どんな救いもないと思っている人々に、限りない希望が与えられる。主は、貧しい人々を見て、そうした希望に生きられるほど幸せであると感動されたのである。

2.悲しんでいる人の幸い 5:4

ここでいう悲しみは、最も愛する人を失ったときの悲しみである。私の二世代ほど上の人々は、自分の子供を小さいとき亡くしている人が多い。ネパールでは今でも、生まれた子供の半数しか成人しないといわれている。子供を亡くす親の悲しみは計り知れない。子供でなくても、愛する者を亡くす悲しみは大きい。何物によっても癒されることはない。
そんな悲しみにある人々を見て、主は、「何と幸いなことか」と心から感動されたのである。時々、人の不幸を笑うものがいる。主はそのような方ではない。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」(*4)と教えられる主が、悲しむ者を見て「さいわいだ」と宣言されたのである。
「その人たちは慰められる」からである。主に慰めを受ける。主は神の子でありながら、「悲しみの人で、病を知っていた」(*5)とある。人の悲しみを徹底して知られた主だからこそ、真の慰めを与えることができる。そして、愛そのものであられる神の子になぐさめられる者に、癒されない悲しみはない。

(日本同盟キリスト教団富津教会 月報No.34 1999年3月号より)


発行者注

*1 初代教会

キリストが十字架で殺され、生きかえり、40日後に人々の眼前で天に昇っていったあと、弟子たちは一ヵ所に集まって熱心に祈っていた。この集団がキリスト教の最初の教会。

*2 生きていけないほどの迫害

決して比喩ではない。イエスをメシア(キリスト)と信じる者たちは、ユダヤ教社会から苛烈な迫害を受けた。使徒パウロは改宗前はユダヤ教の若手のホープで、家々に押し入り教会を荒しクリスチャンを処刑のために連行していた。それでも信じる者は増えていったのである。

*3 地上の生活が変わっていく

新約聖書はギリシャ語で書かれているが、イエスはヘブライ語を話していた。そのヘブライ語では「近づく」は「(そこに)ある」の意味になる。
「天の国は近づいた」は、キリストであるイエスが来たことによって神の国が地上にすでに来たという宣言であり、死んでから天国で暮らすことだけでなく、この世で神と共に生きる生き方に変えられることである。

*4 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け

ローマの信徒への手紙12章15

*5 悲しみの人で、病を知っていた

イザヤ書53章3-4。預言者イザヤによる、キリストについての預言。


このページの著作権は坂井栄一牧師に、発行者注の内容と誤字等の責は発行者にあります。

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作成:1999年3月
更新:2000年2月4日

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