新約聖書 第7回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

主イエスの伝道の開始

マタイによる福音書4章12~5章2節

1.悔い改めよ(4:12-17)

3章に登場した洗礼者ヨハネが捕らえられた。14章にその理由と、ヨハネが殺された時の模様が詳しく書かれている。2章に出てきたヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスはガリラヤの領主であったが、ヨハネは、兄弟の妻を奪ったヘロデの結婚の過ち(*1)を指摘したために捕らえられたのである。殉教したヨハネの名は、広く知られていた。
主の伝道はガリラヤから始まった。それは預言者イザヤの預言の成就であった。ガリラヤ湖に面したカファルナウムの町は、主のガリラヤ伝道の拠点ともなった。主の伝道は、宗教・政治の中心地エルサレムではなく、ユダヤ人から見れば片田舎のガリラヤから始まった。主の誕生もエルサレムではなく、小さな村ベツレヘムであった。預言の成就とは言え、人間的な期待や解釈(*2)と神のなさる事には大きなへだたりがある。
主は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言された。ユダヤ人マタイは、おそれ多い神という言葉をできるだけ用いなかった。天という言葉で神を表した。天の国とは、いわゆる天国というより、神の支配される国という意味である。

2.漁師を弟子にする(4:18-22)

4人の漁師が、なぜ主の一言で従って行ったか判らない。すでにカファルナウムの町では、主の説教は始まっていた。彼らが心を動かされていたのかもしれない。ルカは、主がカファルナウムで悪霊に憑かれた男を助けたり、シモン・ペトロのしゅうとめの病気を治されたことなどを記した後に、彼らを召した記事を載せている。
ペトロとアンデレは網を捨て、ヤコブとヨハネとは船と父とを残して、イエスに従った。イエスとの真の出会いを経験した者は、生活の手段、親しい親族を捨てても従っていく。主に従うとはそれほど素晴らしいことなのである。

3.伝道と奉仕(4:23-25)

イエスはガリラヤ中を回って会堂で教え、神の国の福音を宣(の)べ伝えられた。会堂はユダヤ人が礼拝を行うところで、どの町々にもあった。当時多くのユダヤ人がローマ帝国の町々に散っていたが、ユダヤ人が10家族いるところには会堂が建てられたと言われている。後に主の使徒となったパウロも、ローマの町々を回るとき、まず会堂で福音を語った。
主は、福音を語るだけでなく、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そして人々は、神の国の教えより、病気を治してもらうことを願った。
ここに教会の使命が示されている。教会では、日曜日の礼拝はもちろん、機会あるごとに聖書から神の国の福音が語られている。しかし同時に、助けを必要としている人々への奉仕も忘れてはならない。キリスト教が率先して福祉的な働きをして来たのは、主の姿をまねたからである。

4.真の幸い(5:1-2)

ここから7章の終わりまで、山上の説教と呼ばれる主の教えが記されている。いくつかの言葉は、キリスト教を全く知らない人でも聞いたことがある。この説教を聞くのは、立派な教養を身につけた人々ではない。4章の終わりに登場してくる、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者などである。当時、病人は悲惨であった(*3)。貧しい時代である。幼い子どもから老人まではたらいてやっと食べていける状態である。今の発展途上国より貧しかった。病人がいては一家が共倒れになる。そこで病人や障害のある者は捨てられた。そのような人々が、町の門などで物乞いをしていた。だから病気が治ると聞けば、家族はどんな苦労をしても運んでくる。病人自身も這ってでもイエスのところにやってくる。そのような人々に対して、主は口を開かれたのである。
その一声は「なんと幸いなことか」であった。自分を幸いだと決して思えない人々に、感動を込めて幸いだと語る主の教えが始まる。

(日本同盟キリスト教団富津教会 月報No.33 1999年2月号より)

発行者注

*1 ヘロデの結婚の過ち

ヘロデ・アンティパスは兄弟フィリポの妻ヘロディアを見そめ、自分の妻を離縁。ヘロディアは娘を連れてヘロデのもとに来た。これは二つの律法(申命記24:1とレビ記20:21)に違反する。

*2 人間的な期待や解釈

救い主はダビデの末裔として、当然エルサレムに現れると考えられていた。また、少なくともガリラヤからだけは預言者は出るまい、とも考えられていた(ヨハネ福音書7:52)。

*3 病人は悲惨だった

貧しい者に医療が届かないというだけでなく、病気や障害は罪のために神から下された呪いと考えられていた。ヨハネ福音書9章に、イエスの弟子たちが盲人を指差して「この人が盲目なのは、本人の罪のためか親の罪のためか」とイエスに質問するという、人権も配慮もあったものじゃない場面が記録されている。


このページの著作権は坂井栄一牧師に、発行者注の内容と誤字等の責は発行者にあります。

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作成:1999年2月
更新:1999年11月10日

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