新約聖書 第6回

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(このページは、プロテスタントの坂井栄一牧師が教会の印刷物に連載しておられたものを、許可を得て転載するものです。)

誘惑を受ける主イエス

マタイによる福音書4章1~11節

1.試練に遭われる主

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて」と始まります。悪魔から受ける試練や誘惑でさえ”霊”、つまり聖霊である神の導きであると教えられます。私たちの全ては、全能なる神様のみ手の内にあるのです。その神様が私たちのことを何もかも知っていて試練に遭わせるとは、多いに心強いことです。試練に苦しむ人々には、慰めであり励ましです。(*1)
悪魔とは、誘惑する者とも表現されていますが、私たちを神から離そうとする力です。人格的存在ですが形はありません。私たちの心に自然に働いて、神への信仰に疑問を抱かせたり、求道の心を迷わせたりします。人に罪を犯させ、不幸を与える全ての元凶です。
誘惑は三つです。いずれも人であると同時に神の子としての試練です。

2.石をパンに

40日の断食の後の誘惑です。体質を改善するための断食道場というのがあります。私の友人で1ヶ月断食した者がいます。40日というのは肉体的にかなり限界に近いでしょう。
人の肉体を持つ者として、空腹の苦しみは大きいでしょう。神としては石をパンに変えられる能力を持っているのです。私たちでしたら、食物に囲まれて断食するようなものです。
誘惑するものは巧妙です。神の子ならそんなに苦しまなくて良いではないか。さっさと石をパンにして空腹を満たせとささやくのです。主は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、旧約聖書の言葉を引用して誘惑を退けました(申命記8:3)。人は肉体が維持されればよいという存在ではありません。いまの日本は飢え死にしないほどの物に恵まれています。しかし自分の生に満足している人は、非常に少ないのです。何かが足りないと思っています。しかし何が不足しているかが判らないのです。恵まれた物質の中で欲求不満になっています。神の言葉に飢えているのです。御言葉の飢えは、食物の飢えと違って、何に飢えているか判らないところに恐ろしさがあります。本当に人を生かすのは、神様の一つ一つの言葉です。

3.神を試す。

次に悪魔は、主イエスを神殿の屋根の端に立たせます。当時のエルサレムの神殿はヘロデ大王が建てたもので、中央の聖所、至聖所(*2)のある建物は30メートル、8階建てビルほどの高さでした。
今度は、悪魔が聖書を引用します(詩編91:11-12)(*3)。キリスト者は聖書を神の言葉と信じています。人間が編纂したのですが、背後に聖霊なる神の自然の導きがあり、誤りのないものとして書き残してくださったのです。人を用いて一人の言葉として、神が、ご自身と人の救いに関することを記してくださったのです。ですから聖書は、私たちが普段文書を読むように読むことが大切です。祈りの心を持って読む時、十分な知識がなくてもかなりのことを教えられます。そしてまとまった箇所全体で何を教えているのか把握することが大切です。前後関係を無視して引用すればどんな主張もできます。残念ながらキリスト教の歴史の中で、異端と呼ばれる人々がこうした引用の仕方をしてきました。聖書はこう予言している、聖書はこのように教えていると、聖書のあちらこちら引用するのです。終末が切迫しているというように、人を恐怖に陥れ、信仰に誘います。本人たちもそうした読み方しかしないので、全体の教えからは遠く離れていることに気づきません。聖書は全体を読む。そしてわいて来る疑問は、祈りによって神に問うということが大切です。悪魔的な聖書の読み方、引用の仕方に注意しましょう。
話を元に戻します。悪魔は主イエスに向かって「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と誘います。神の子ならばというのは、人となり肉体という制限を与えられたイエスにとって大きな誘惑でした。そして主が宣教の働きに入ってからも、あなたが神の子なら「しるし(*4)を見せてください」(マタイ12:38)というのがユダヤ人の主張でした。主の十字架の場面でさえユダヤ人は、「神の子なら・・・十字架から降りて来い」とはやし立てました(マタイ27:40)。「神の子ならば・・・、救い主ならば・・・」というのは、主にとって大きな誘惑であったのです。
主は、やはり聖書の言葉で答えます。「あなたの神である主を試してはならない」と(申命記6:16)。主は見せるための奇跡は一切行いませんでした。病人を治すときも、人々から離れたところで癒されました。十字架の場面では、人間的には何の奇跡も起こらなかった主の死に方を見て、ローマの兵隊百人隊長は「本当に、この人は神の子であった」と告白しました(マタイ27:54)

4.ただ主に仕えよ

最後は、全世界を見せて、「もしひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」という誘惑です。主が来られた目的は、悪魔の支配化にあるこの世をご自身の支配の下に置くことです。主は、悪魔に捕らわれている罪人を救うために、十字架に掛かられました。罪人に代わって父なる神の裁きを受けることは、主にとって耐え難い苦しみでした。十字架に掛かられる前にゲッセマネの園で主は、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と、汗が血のしたたるように地面に落ちるまで祈っています(ルカ22:39-44)
また主が十字架の予告をされた時、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめるペトロに対して、「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:21-23)と、厳しく叱りました。人間的善意であろうと主の十字架に反対する者は、サタン(悪魔)なのです。主にとっては、厳しくペトロを叱らなければならないほど、十字架は取りのけてほしい苦しみであったのです。ですから悪魔の「わたしを拝むなら」そのままで世の支配権を与えようというのは大きな誘惑であったのです。
ここでも主は、聖書の一言を持ってサタンの誘惑を退けました。そして悪魔は主から離れます。ルカによる福音書では、「時が来るまでイエスを離れた」(ルカ4:13)とあるので、悪魔の主への誘惑は度々あったことが判ります。

(日本同盟キリスト教団富津教会 月報No.32 1999年1月号より)


発行者注

*1 試練

第1コリント10:13にこう書いてあります。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

*2 至聖所(しせいじょ)

神殿の中心、聖所の一番奥。「聖の聖なる場所」の意味で、入れるのは大祭司一人だけだった。ソロモン王時代に最初の神殿が建設される以前の礼拝の場所だった「幕屋」も同じ構造で建てられ、至聖所には「契約の箱」が置かれていた。

*3 悪魔が聖書を引用

洋モノの映画などで、聖書や十字架をつきつけるだけで魔物が退散したりするものがあるが、聖書は、悪魔はそんなカワイゲのあるものではないと警告している。第2コリント11:14には、正しい者を騙すためなら「サタンも光の天使に擬装する」とある。

*4 しるし

徴。つまり証拠、あるいは証拠としての奇跡。律法学者たちは「奇跡を見せたら信じてやろう」と言ったが、そういう人たちは結局は奇跡を見ても信じなかったりする。ヨハネ福音書9章には、イエスによる奇跡の証拠を目の当たりにしたユダヤ人指導者たちの、混乱するしかなかった姿が記録されている。


このページの著作権は坂井栄一牧師に、発行者注の内容と誤字等の責は発行者にあります。

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作成:1999年1月
更新:1999年9月24日

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