サムエル記 第3回

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第1部・サムエルの時代

ハンナの賛歌(サムエル記一2章1-10)

ハンナがサムエルをシロの神殿に連れて行ったとき、ハンナと祭司エリは[主を礼拝した]と書かれていました。このときのハンナの祈りの言葉が、2章の冒頭に記されています。
ただ、[ハンナは祈って言った]と書かれているのに、記されているのは祈りというよりは詩文です。おそらくハンナは、これを歌ったのでしょう。(*1)

(文中の「主」はすべて、主君の意味ではなく神名です。)

主にあってわたしの心は喜び
主にあってわたしは角を高く上げる。(*2)
わたしは敵に対して口を大きく開き
御救いを喜び祝う。
聖なる方は主のみ。
あなたと並ぶ者はだれもいない。
岩と頼むのはわたしたちの神のみ。(*3)

おごり高ぶるな、高ぶって語るな。
思い上がった言葉を口にしてはならない。
主は何事も知っておられる神
人の行いが正されずに済むであろうか。(*4)

勇士の弓は折られるが
よろめく者は力を帯びる。

食べ飽きている者はパンのために雇われ
飢えている者は再び飢えることがない。
子のない女は七人の子を産み
多くの子をもつ女は衰える。

主は命を絶ち、また命を与え
陰府に下し、また引き上げてくださる。(*5)

主は貧しくし、また富ませ
低くし、また高めてくださる。

弱い者をちりの中から立ち上がらせ
貧しい者をあくたの中から高く上げ
高貴な者と共に座に着かせ
栄光の座を嗣業としてお与えになる。(*6)(*7)

大地のもろもろの柱は主のもの(*8)
主は世界をそれらの上に据えられた。

主の慈しみに生きる者の足を主は守り
主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。
人は力によって勝つのではない。

主は逆らう者を打ち砕き
天から彼らに雷鳴をとどろかされる。
主は地の果てまで裁きを及ぼし
王に力を与え
油そそがれた者の角を高く上げられる。

全編で神の偉大さをたたえ上げていますが、特に注意を引くのは、強い者、豊かな者、高ぶる者と、弱い者、貧しい者、神に頼る者とが逆転するというモチーフです。
子を産むまでのハンナがどれほど苦しんでいたか、そしてそれが今どのように変えられたかを、そのように変えたのは神ヤハウェであるということを中心に歌っています。

それにしても、平凡な主婦の口をついて出たとは思えない見事な作です。彼女はどうしてこんな歌を作ることができたのでしょうか。

勝利を祝って女性が賛美して歌うことは、出エジプトの時代からイスラエルにあったことでした。ハンナにとってサムエルを産んだことは、不妊という状態に対する勝利です。(さんざんいじめてくれたペニンナにこれで勝った、とも言えますが、賛歌に出てくる「敵」は複数形なのでペニンナ一人に対する勝利ということではなさそうです)

イスラエルの女性たちは、私たちが学校で音楽や詩を学ぶようには学んでいなかったかもしれませんが、賛美を歌うということは普通のことだったのでしょう。後の時代にイエスをみごもった時のマリアも、すばらしい賛美の歌を歌っています。ルカ福音書2章に記録されているこの賛歌にも、逆転のモチーフが歌いこまれています。
日本でも万葉集の時代などは、男でも女でも、高貴でも庶民でも、普通に歌を詠み交わしていました。高貴な人はそれなりの手ほどきを受けていたでしょうけれど、内容的にも市井の人が詠んだと思われる、でもとても素敵な歌も多くあります。


おまけ:油そそがれた者

ハンナの賛歌の最後の2行「王に力を与え」と「油そそがれた者の角を高く上げられる。」について。

ここで「王」と訳されているのは、直訳すると「彼の王」です。「彼」とは主ヤハウェのことですから、この行は「ヤハウェは、自分が立てる王に力を与える」ということを歌っています。

次に、香油を頭にそそがれるというのは、王座につけることを意味します。あとで登場するサウル王やダビデ王も、油(香油)を頭にそそがれて王となっています。
また、「油そそがれた者」の部分を直訳すると「彼のメシア」で、彼とはヤハウェを指します。さらに角【つの】は動物にとって力や強さの象徴であることによる比喩です。つまりこの行は「ヤハウェは、自身が擁立する王の力を高くする」と歌っているのです。

というわけで、この最後の2行は、同じ意味のことを表現を変えて歌っているものです。

このように同じ意味のことを違う言い方で表現することを、平行法または対句法と言います。
「ごく普通の主婦ハンナが、そんな技法に通じていたのか」と思われるかもしれませんが、平行法は聖書でも詩歌に限らず多くの箇所で使われていて、特別に高度な技法というよりはごく普通の表現形式であったようです。

途中に出てくる「主は命を絶ち、また命を与え」「陰府に下し、また引き上げてくださる。」の2行も平行法になっています。
陰府【よみ】とは人が死後にいくところですから、二行とも「ヤハウェは人に死を与えることも、そのあと新しく命を与えることもできる」という同じ意味のことを歌っているのです。(*8)

ところで、この時点ではイスラエルにはまだ王はいないのに、なぜハンナは王について歌っているのでしょうか。
イスラエル人は士師記の時代に、王制を布く強国に繰り返し苦しめられていました。そうした経験から「自分たちも強い王を持つ強い国に」とイスラエル人たちが願うようになっていったのが、このサムエル記の時代なのです。


*1 ハンナとエリは、礼拝したのでしょうか、祈ったのでしょうか、賛美したのでしょうか。実はこれらは、区別できないものであるし区別する必要もないことです。
祈りにも請願や感謝などいろいろありますが、賛美つまり神をたたえるということもまた祈りの要素です。キリストも[賛美の祈りを唱え]たと書かれています(マタイ14章19など)。たたえようとも思わない相手に何事かを祈り願うということはしないものでしょう。
また、聖書(特に新約聖書)で「賛美した」とある箇所は、そのまま「礼拝した」と読みかえることもできる文脈です。
聖書では、礼拝も賛美も祈りも、神にささげられています。

*2 動物にとって角(つの)は、頭にあって力や強さの象徴だ、ということから比喩的な表現として取り入れたのでしょう。

*3 岩は、聖書とくに旧約聖書では、守護者の象徴として使われる表現です。びくともしない頼りがいのあるもの、というイメージなのでしょう。守護者とは神ヤハウェであり、また来るべき救い主メシアつまりキリストを岩にたとえている場面も多くあります。

*4 新改訳聖書や口語訳聖書をお持ちの方は、新共同訳は表現がかなり違うと思われるかもしれません。原文により近い(直訳に近い)といえるのは口語訳ですが、この「行いが主なる神によって量られる」という審判を新共同訳では意訳し、新改訳では審判の確かさに焦点をあてたのではないかと思います。

*5 陰府は、地獄とも天国とも異なります。人は死のあとに陰府に行き、世の終わりのいわゆる「最後の審判」のときに陰府からだされて、天国か地獄かに裁かれるのです。(ヨハネ黙示録20章13)
終わりの日に復活することはイエスの時代にも一般に知られていましたから(ヨハネ福音書11章24)、ここでハンナが歌っている、死のあとの生とは、現世に生き返ることではなく終末の復活のことだろうと思います。
こちらも参照

*6 「栄光の座」とは、ルツ記の最後の裁判の場面で証人となった十人の長老が座ったような、栄誉ある席のこと。⇒ルツ記4章2

*7 嗣業【しぎょう】とは「先祖代々、受け嗣【つ】ぐ業」のことで、土地財産も含めて神から受けた祝福のこと。

*8 「大地のもろもろの柱」というのは正直なところよくわかりません。ただ、たとえば古代インド人は「世界は巨大な亀の上に乗っている」と考えていたと言いますが、そういう意味で「ヤハウェが世界を柱の上に据えた」という意味ではないことは確かです。創世記の天地創造の記事にそんなことは書かれていない以上、そのように考える理由がないからです。おそらく、ヤハウェに創造された世界がヤハウェによってたもたれている、ということの比喩的表現ではないかと思います。

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#189
作成:2009年10月30日

布忠.com