サムエル記 第1回

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序・サムエル記の基礎知識

タイトルと位置づけ

今回からサムエル記をご紹介しますが、第一回は例によって、サムエル記の基礎知識をお届けします。

旧約聖書の目次を見ると、その第9巻を新共同訳では「サムエル記一」、第10巻は「サムエル記二」としています。新改訳などでは「サムエル記上」「サムエル記下」です。
紀元前二世紀のはじめまでに編まれたギリシャ語訳の聖書ではすでに上下二巻となっているのですが、各種の史料やユダヤ教のラビ(教師、宗教的指導者たち)の伝承から、もとは一巻だったと考えられています。あとに続く列王記一,二や歴代誌一,二も同様に考えられるそうです。
内容が継続していることもあり、本誌では第9巻と第10巻をあわせて「サムエル記」として扱います。

その「サムエル記」という書名ですが、サムエルというのは人名です。
ですが、ルツ記ではルツが、ヨシュア記ではほぼ全編でヨシュアが主役だったのとは違って、サムエルはサムエル記上下あわせて55章のうち上巻の第19章でほとんど退場してしまって、さらに上巻の第25章で亡くなってしまいます。
サムエルのあと、イスラエル初代の王サウルが登場し、続いて第二代の王ダビデが登場します。サムエルはサムエル記の3人の主人公のうちの1人でしかありません。

ボリュームでいうと、ダビデについてもっとも行数が割かれています。
旧約聖書第13巻「歴代誌一」の29章29に、

ダビデ王の事績は、初期のことも後期のことも、『先見者サムエルの言葉』『預言者ナタンの言葉』、および『先見者ガドの言葉』に記されている。そこには彼の統治のすべてとその業績、また彼とイスラエル、およびすべての近隣諸国に起こった出来事の経過が記されている。

と書かれているのですが、この三つの「○○の言葉」をあわせたものがサムエル記なんじゃないかと想像することもできそうで、そうするとサムエル記というよりダビデ記といったほうがいいのではとも思えるのですが。

ではなぜダビデ記ではなくサムエル記なのかというと、サムエルは、ヤハウェの言葉を取り次いだ預言者であり、サウルとダビデに王位就任の儀式をおこなうなどした祭司でもあります。また、最後の士師とも呼ばれています。サムエル記は「サムエルと、サムエルをとおしてヤハウェが王位を与えた王たちの時代の物語」なのです。
もし有名なダビデ王の名を冠して「ダビデ記」だったら、英雄物語とか建国譚ということになったかもしれませんが、そうではないということです。便宜的に「3人の主人公」と言いましたが、真の主人公はヤハウェであって、ヤハウェとイスラエルを仲介したサムエルの名をこの記録に冠した、とも言えます。


著者

書名に名を残すサムエルが早い段階で退場してしまっているとすると、サムエル以外の誰がこれを書き記したのでしょうか。
実は、著者はまったく不明のようです。

前述の『先見者サムエルの言葉』『預言者ナタンの言葉』『先見者ガドの言葉』とサムエル記を比較すると何かが見えるかもしれませんが、日本語で調べられる範囲ではこれらの書については書名しか見つけられませんでした。探し方が悪いのか、それとも現代には伝わっていないのか。

福音書を書いたルカが調べたことを順序正しく書きつづって(つまり収集した資料を整理編集して)「ルカによる福音書」を書いたように(*1)、どこかの時代で誰かが、サムエルやナタンやガドの言葉として伝えられていたものやその他の口伝を一巻にまとめた、ということは考えられるかもしれません。
ではその一巻にまとめられたのがいつかというと、のちに南王国が新バビロニアに滅ぼされて人々が新バビロニアに連行されたとき、その異郷の地でヤハウェ信仰を守るためにそれまで口伝だったものを書き留めるようになったと考えられていて、サムエル記もその頃に文字にされたのではという説が提案されています。


歴史的背景

サムエル記は、ヘブライ語聖書では士師記の次に置かれて、ヨシュア記などと一緒に「先の預言者」と呼ばれています。「歴史書というスタイルをとった、神の言葉の書」なのです。
歴史書というスタイルとはいえ、例によって、できごとをそれがおきた順に記録する年代記の形式をとってはいませんが、どのような時代だったかを整理しておくことはサムエル記を読む助けになるかと思います。

これまで見てきたように、イスラエルは、モーセそしてヨシュアという指導者のもとで、ヤハウェに与えられた「約束の地」カナン地方に入りました。しかしヨシュア亡きあとのイスラエルには、指導者は立てられませんでした。士師記に[そのころイスラエルには王がなく]と繰り返されているとおり、必要に応じて士師と呼ばれる指導者をヤハウェが任命するシステムでした。
この士師は、臨時の役目である上に、イスラエル全体の指導者でさえありませんでした。士師がいくつかの部族を率いて敵と戦ったあとで、残りの部族が「おいおい、聞いてないぞ」とばかりに顔を出す、という場面も何度かありました。

しかし外国との武力衝突が激しくなってくると、イスラエル人はこうした「臨時の局地的な指導者」から王政への移行を求めるようになり、初代サウル王、第二代ダビデ王、第三代ソロモン王が立てられることになります。サムエル記はこのうちの、人々が王政を望み始めた頃から、ダビデ王の代までを記録しています。

これを世界史の中で見ると、西ではエジプトは第21王朝の時代にあたります。第三中間期と呼ばれる、エジプトがゆっくり衰退していった時期の初めころです。東のメソポタミアでいうと、アッシリアが勃興する少し前にあたります。

イスラエルはソロモン王の死後にはアッシリアや新バビロニア(カルデア)の侵攻を受けるようになりますが、サムエル記の時代はメソポタミアともエジプトとも関係は落ち着いていたと言えます。
ではどこと武力衝突が起っていたかというと、ペリシテ人です。詳しいことは追い追い紹介しますが、士師記でもイスラエルの敵として登場したペリシテ人は、サウル王からダビデ王の時代にもっとも濃くイスラエルと関わっています。

このペリシテ人というのがどういう人々だったのかは、考古学の分野でもよくわかっていないようです。
聖書では、創世記10章14にはじめて名前が出てきます。箱舟で有名なノアの三人の息子のうちハムの息子が4人(クシュ、エジプト、プト、カナン)記され、このうちエジプトの子孫として7つの民族の名が記されていて、そのひとつカフトル人からペリシテ人が出た、と記録されているものです。このカフトルとはクレテ島であろうという説が提案されています。
一方、紀元前12世紀にエジプトに侵入して撃退された「海の民」という人々がいます。メソポタミアのウガリットもこの「海の民」に滅ぼされています。この「海の民」がペリシテ人ではないかと言われていて、だとするとイスラエルにとっては本当に強大な敵だったと思います。


おまけ1:パレスチナについて

現在、イスラエル周辺を「パレスチナ地方」と呼ぶことがありますが、このパレスチナというのは「ペリシテ人の土地」という意味です。
ただ、これは「現代のパレスチナ人は、古代ペリシテ人の子孫」ということではありません。テレビで解説者とか評論家とか名乗る人がそのように間違ってしゃべっているのを何度か見たことがあるのですが、聖書に出てくるペリシテ人と、現代のパレスチナ人との間には、つながりはないのです。

この地方が「パレスチナ」と呼ばれるのは、紀元135年にローマ帝国のハドリアヌス帝が「属州ユダヤ」を「属州シリア・パレスチナ」と改称したことによります。これは、反乱を繰り返すユダヤを消し去る象徴として、当時からさらに千年ほども昔に歴史のかなたに消えたペリシテ人の名で呼んだものです。
では現在「パレスチナ人」と呼ばれている人たちはというと、この「パレスチナ人」という呼び方は、1964年に設立されたパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長が使い始めたもので、それまでは「パレスチナ人」はいなかったのです。

これは、現在パレスチナ人と呼ばれている人がいなかったという意味ではありません。現在パレスチナ人と呼ばれている人たちは、最近になってそう呼ばれるようになったということで、それまではこれらの人々は、民族としてはアラブ人でした。国籍としてはオスマン人ということになるかと思います。
たびかさなる中東戦争は、イスラエル建国時にこれを殲滅しようと周辺アラブ諸国が攻め込んだことに始まりますが、この戦争のときに逃れて難民となったアラブ人やその子孫が「パレスチナ人」と名乗っている人々です。一方でイスラエルに残ったアラブ人も少なくありません。この人たちはイスラエルでは、(差別を受けることはあっても)選挙権も被選挙権もあるイスラエル国民です。こうしたイスラエル国民であるアラブ人を「パレスチナ人」と呼ぶ人はいないわけです。パレスチナ人とは民族を表す名前ではなく、パレスチナ人と名乗っている人たちがパレスチナ人ということなのです。


おまけ2:サムエル記から列王記にかけての年表

サムエル記が年代記の形式ではないとはいえ、これまでよりは世界史とリンクする部分が増えてきます。 そこで試みに、サムエル記一,二から列王記一,二くらいまでの聖書の記事を、オリエント史に投影してみます。 ただし、聖書の記事の年代を精確に断定することはやはりできません。バビロニアによる侵攻など、考古学と聖書の記録とが突き合わせられるところもあるのですが、それは記事としてはわずかな数です。あくまでも「世界史でいうとこれくらいの頃のことなんだな」という程度の参考にしてください。

紀元前1080頃
ペリシテ人がイスラエル北部を征圧し、人々を奴隷にする。これを機にイスラエル人は、必要に応じてヤハウェが士師を擁立する制度から、王政への移行を求める。
前1044
サウルが初代のイスラエル王となる。
前1004
ユダ地方の王位についていたダビデが、エルサレムを首都とし全イスラエルの王となる。
前971~970
ダビデの没後、ソロモンが王位につく。
前931~930
ソロモンの死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂。
前744
アッシリアが周囲の反アッシリア同盟を次々に破る。
前738
アッシリアがイスラエル王国に侵攻し服属させる。ユダ王国もアッシリアの貢納国となる。
前732
ダマスコとイスラエル王国が同盟してアッシリアに対し反乱を起こしていたが、ダマスコが平定される。その後イスラエル王国の首都サマリアも陥落し、北王国滅亡。
前612
アッシリアが新バビロニア(カルデア)に滅ぼされる。
前597
新バビロニアがエルサレムに侵攻。王を含め約1万人を連れ去る(第一回捕囚)。
前586
南ユダ王国が新バビロニアに破れ、エルサレムが破壊される。
前539
アケメネス朝ペルシアにより新バビロニア滅亡。
前538
ペルシア王大キュロスがイスラエル人を解放。大多数がバビロニアに残ることを選んだが、何割かがイスラエルに帰還する。

上は、筆者の手元のいくつかの参考書と、wikipediaの「古代イスラエル」「アッシリア」「ティグラト・ピレセル3世」「新バビロニア」「キュロス2世」などの項目を参考にしています。
ただしそれぞれの年代が一致していないところもあり、そういうところは「えい、や!」で書いていますので、そういう意味でもあくまでも参考にとどめてください。


*1 ルカによる福音書1章3-4。

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#187
作成:2009年9月15日

布忠.com

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