ルツ記 第3回

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ボアズの畑で(2章1~16)

「ナオミさんが帰ってきた」というニュースは彼女の苦労話とともに、おそらくはモアブ人の娘が[主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たこと]という話と一緒に伝わっていきました。
こうしてイスラエルに住むようになったナオミとルツですが、[わたしを主【ヤハウェ】はうつろにして帰らせた]とのナオミの言葉どおり、二人には何もありません。ただ、ではもう座して飢えるだけかというと、そうではありません。イスラエルには、モーセをとおして次のおきてが命じられていたのです。

穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。
収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。
ぶどうも、摘み尽くしてはならない。
ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。
これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。
わたしはあなたたちの神、主である。(レビ記19章9-10)

「貧しい者や寄留者のために」とは、まさにナオミとルツのためにあるようなおきてです。しかも前号の最後で触れたとおり、季節は[大麦の刈り入れの始まるころ]でした。
だからといって、人が丹精こめてそだてた畑で穂を拾うというのは「歓迎はされないのでは」と思ったことでしょう(*1)。ルツはナオミに[畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます]と、幸運を期待するだけというような言い方をして家を出ました。

そしてルツは、ある畑で農夫たちが刈り入れをしているのを見ると、そのあとについて、農夫が落とした穂を拾い始めました。
この畑が、ナオミの亡き夫エリメレクの一族であるボアズのものだったことが、ルツの幸運の始まり、いえ、ヤハウェの恵みの始まりとなるのです。

しばらくすると、ボアズがやってきて農夫たちと挨拶をかわしました。
やがてボアズは見慣れない若い女に気づき、それが誰であるかと農夫を監督する召し使いにたずねました。この召し使い自身、ルツの境遇に同情していたのか、それが[ナオミと一緒に戻ったモアブの娘]であることを、その働き者ぶりとあわせて報告しました。

するとボアズのほうでは、レビ記の規程のことだけでなく親族エリメレクの家族ということで、ルツに声をかけ、よその畑には行かず私の畑で落ち穂を拾うようにと言ったのです。さらに、事情を知らない労働者が意地悪をしないように命じておくし、のどが渇いたら水がめから自由に飲んでいいとまでいうものですから、ルツは「よそ者のわたしにこんなに目をかけてくださるなんて、どうしてそんなに厚意を」と驚いてしまいました。
ここで「親族の一人として支援する義務がある」などと味気ないことはいわないのがボアズのかっこいいところで、ただ、あなたのことは全部聞いているよと、そして[どうか、主【ヤハウェ】があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主【ヤハウェ】がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。]と祝福を祈るだけでした。

やがて食事の時間になるとボアズは、農夫たちの食卓にルツを呼びました。農夫たちの食事ですから豪勢ということはないでしょうけれど(*2)、ルツは[飽き足りて残すほど]だったと記録されています。

さらにボアズは、ルツには内緒で若い衆にこう命じました。

おまえたちの後ろで穂を拾わせるだけでなく、お前たちが働いている麦束のあいだでもあの娘には拾わせるがよい。それだけでなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておき、彼女に拾わせるのだ。

キリスト教徒が歴史の中でしばしば聖書を都合よく使ってきたということは本誌でもこれまで何度か書いてきましたが、ボアズの場合はその対極ですね。レビ記のおきてをうまく使って、陰ながら助けているわけです。
助けていることをルツ本人には気づかせないスマートさ。キリストも、偽善にならないためにも「ほどこしをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と教えて、目立つことをいましめています。日本で言う陰徳というものですね。
現代ではもう、薄幸のヒロインを陰ながら支援するというのはフィクションにしてもありふれた展開ですが、数千年も前の生身の男がこういう粋な立ち回りをしているわけですね。筆者などは器量が小さいもので、ちょっとくらいの男っぷりだとしらけたりもするのですが、ボアズくらいになるとやっかむ気にもなりません。


おまけ

これまで何度か触れたことと重複しますが。

ボアズが畑にきたとき、彼は農夫たちに「主があなたたちと共におられますように」と挨拶し、農夫たちも「主があなたを祝福してくださいますように」と応えています。どちらの「主」も、ヘブライ語底本では神名をあらわす四つの子音文字となっています。英字アルファベットのYHWHに相当するもので、本誌で「ヤハウェ」と表記しているものです。

後の時代、イスラエルでは十戒の「汝の神、YHWHの名をみだりに口にしてはならない」というおきてをどうしたら守れるかと考え、そして「みだりに」の基準が明確でない以上は厳密に遵守するには「一切、口にしない」しかないという結論になったといいます。
極端なように思えるかもしれませんが、それだけ「神のおきて」を大切にしようと考えたわけです。士師記の時代にも何度も神に背いては困難な時代を経験し、後の時代にはついに国破れてバビロンに連行されるという困難まで味わってしまったからこそ、「いかに聖書に違反しないか」を突き詰めることになったのでしょう。

この結果、聖書を朗読するときも、YHWHと書いてあるところにくると、「アドナイ」つまり「主」と読み替えるようになりました。
ヘブライ語アルファベットには子音を表す文字しかなく、必要な場合には母音記号をそえるのですが、現代のヘブライ語聖書ではYHWHのところには、アドナイと読むことを前提とした母音記号がそえられています。(これをそのまま読んでしまうと、YHWHという子音に「アドナイ」の母音を合成することになって「エホバ」になってしまうわけです)
新共同訳聖書で、底本でYHWHとあるところを「主」と訳しているのは、YHWHを「アドナイ」と読むユダヤ人の習慣に倣ったものといえそうです。

ルツ記が興味深いのは、もちろんこの時代すでに十戒がイスラエルに与えられていたにも関わらず、あいさつに織り込むくらいごく普通に神の名を口にしていた様子がわかるというところにもあります。
もちろん、相手を祝福するために神の名を口にすることは「みだりに」に該当するものではありません。(ちなみに日本語の「みだり」は、「乱れ」から来ているそうです。)

ところで、ボアズから親切にされたルツは、ボアズに「私の主よ」と言っています。邦訳聖書を読むと、ルツがボアズを神格化して同じ呼び方をしたかのようですが、ルツがボアズを呼んだときはYHWHではなくアドナイ。「ご主人」というくらいの、恩に感じたルツの最大限の尊称でしょう。


*1 ルツはイスラエル人ではありませんが、レビ記の規程はエリメレク家の人から聞いていたかもしれませんし、また中近東では客や旅人には親切にするのが常識でした。
ただ、ボアズは若い衆に、ルツの邪魔をしないように命じる必要がありました。また2章の後半では、ボアズの畑で落ち穂拾いを続けられると知ったナオミが「よその畑で、だれかからひどい目に遭わされることもないし」と喜んでいます。畑の持ち主にひどい目にあわされることがあるということか、あるいは落ち穂を拾う者の間でいさかいが起きるということか、いずれにしてもよそ者のルツには、少なからず思い切りが必要だったことでしょう。

*2 食事のときにボアズがルツに声をかけ、パンを酢にひたしたものや、麦を炒ったものを食べさせたと記録されています。
ここでいう「酢」は、ワインビネガーに少量のオリーブ油を混ぜた飲み物。最近はやりの黒酢ドリンクのようなものと思えば、暑い中での労働後に元気をつけ食欲を増すものだったと想像できます。
「炒り麦」はレビ記2章14でヤハウェに奉献するものにも挙げられていて、いわばヤハウェ御用達の調理方法です。

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#182
作成:2009年6月11日

布忠.com