ルツ記 第2回

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モアブ人ルツ、イスラエルへ(1章)

全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。
出て行くときは、満たされていたわたしを
主【ヤハウェ】はうつろにして帰らせたのです。
なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。
主【ヤハウェ】がわたしを悩ませ
全能者がわたしを不幸に落とされたのに。

ルツ記に出てくる、ナオミという女性の叫びです。いったい何が、彼女にここまで言わせたのでしょうか。

ルツ記の冒頭に、この物語が[士師が世を治めていたころ]のことだったと書かれています。12人の士師のうち誰の時代かはわかりませんが、そのとき飢饉がイスラエルを襲ったと。この飢饉が天災によるものか、敵の攻撃による荒廃によるものかもわかりません。
とにかく、飢饉があった。そこで、ユダ族のエリメレクという人物が、妻と二人の息子を連れて、モアブの野に移り住んだ。そこからルツ記は始まります。

このエリメレクの妻がナオミです。どこか日本人の名前のような音ですが、引用中にあるとおり「こころよい」という意味のヘブライ語から来ている名前です。モデルのナオミ・キャンベルも聖書からナオミと名づけられたそうです。(*1)

でもナオミは、自分で言っているとおり「こころよい」という名前とはうらはらな苦労を重ねたのです。
士師の時代、イスラエル人は外敵によってかなり苦しめられましたが、それでも「約束の地」から逃げ出したという記録は他にありません(記録されていないだけということも考えられますが)。また、あとでナオミがイスラエルに帰ったときには、一族の誰が支援するのかという問題がおきることになります。それを考えると、エリメレクは財産を失ってモアブに逃れたか、少なくとも家や畑を売り払って移住の費用に当てたものと思います。(上記引用でナオミが「出て行くときは満たされていた」と言っているのは、「今は失った」ということを際立たせるための詩的表現であるか、あるいは売り払ったから手持ちはある程度あったということでしょう。)
そのような、おそらく「もう帰れない」という状態で、しかしほどなく夫エリメレクが客死してしまったのです。

その後に二人の息子はモアブ人女性と結婚しました。マフロンの妻になったのが、本編の主人公ルツです。キルヨンの妻はオルパといいます。
ようやく主人公の登場なのですが、しかしエリメレクの移住から十年ほども経つうちに、マフロンとキルヨンも母と妻を残して相次いで死んでしまったのです。異邦の地でナオミに残されたのは、二人の嫁だけとなってしまいました。
寄る辺もないとはこのことです。ただでさえ、女の身ひとつで生きていくのが難しい時代。どうせ難しいのならせめて、いつまでも異国にいないで故郷に帰ろうとナオミは思い立ちました。その頃に[主【ヤハウェ】がその民を顧み、食べ物をお与えになった]と、イスラエルの飢饉が終わったという情報も伝わってきました。

ところが、モアブ人である二人の嫁もナオミについていこうとします。里に帰らせようとするナオミと、泣きながら「一緒に行きたい」という二人の嫁のやりとりは、3人の女性の困難な状況を切実に伝えるとともに、とても興味深いところがあります。

まずナオミは二人を里に帰らせようとしてこう言っています。

あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。

2回でてくる「主」は、アドナイという称号ではなく、ヤハウェという神名です。後の時代には、十戒の「ヤハウェの名をみだりに口にしてはならない」を大事にするあまり、聖書を朗読するときでさえ神名のところを「主」と読み替えるようになりますが、この頃は神名を自然に口にしていた様子がうかがえます。(*2)

このナオミの言葉に、ルツとオルパは声をあげて泣き「御一緒にあなたの民のもとへ」と訴えるのですが、これに対するナオミの言葉がまた興味深いのです。

あなたたちの夫になるような子供がわたしの胎内にまだいるとでも思っているのですか。…わたしはもう年をとって、再婚などできはしません。たとえ、まだ望みがあると考えて、今夜にでもだれかのもとに嫁ぎ、子供を産んだとしても、その子たちが大きくなるまであなたたちは待つつもりですか。それまで嫁がずに過ごすつもりですか。

ナオミの言葉は、前回ご紹介したレビラト婚が前提になっているわけです。つまり、もしナオミがこれから男児を生むことができるなら、ルツとオルパは、亡き夫の弟たちに嫁ぐことができるのです。
でも自分はもう年だし、とナオミは言っているわけですが、この時点でナオミが何歳だったかわからないものの、子を産むのが無理な年齢だったとは限りません。ただナオミにとっては、たとえ身体的に可能だったとしても、やはりありえない話なのです。というのも彼女はこう続けています。

あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主【ヤハウェ】の御手がわたしに下されたのですから。

つまりナオミは、今のこの不幸は神からの裁きだと思ったのです。そのような境遇に、このよくできた嫁たちを巻き込むことなどできないと思ったでしょう。

この言葉に、ルツとオルパはまた声をあげて泣いたと記録されています。そしてやがて、オルパは姑に別れの挨拶の口づけをしましたが、ルツはなおもすがりついて離れませんでした。
こうしてやむなく、ナオミはルツを連れて、イスラエルのベツレヘムに帰ることにしました。ただ、これはオルパが薄情だったということではないと筆者は考えます。オルパにしても断腸の思いで泣く泣く去っていったのでしょう。
むしろ、ルツのほうが非常識というべきかもしれません。ただ、ルツは考えなしにナオミにすがりついたわけではありませんでした。彼女がナオミに次のように答えたことが記録されています。

あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に
そこに葬られたいのです。
死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主【ヤハウェ】よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。

モアブ人ルツが、イスラエルの神ヤハウェをどの程度わかっていたかは、わかりません。モアブ人は多神教だったでしょうから、もしかするとヤハウェを「全能の唯一神」としてではなく「神々の中の一柱」と考えたかもしれません。
ただ少なくとも、同胞を捨ててイスラエル人になること、イスラエルの神を自分の神とすることを、彼女は口にしました。しかも、「私に落ち度がある時には、ヤハウェこそ私を裁く者であることを受け入れる」と言っているわけです。
これは相当の覚悟。ここまで言われて、さすがにナオミも説得をあきらめました。

二人がベツレヘムにたどりついたとき、町中が二人のことでどよめいたと記録されています。そして女たちが「ナオミさんではありませんか」と声をかけたときに、ナオミが答えた言葉が本号の冒頭で紹介した叫びです。
ナオミは先に、自分の不幸は神の裁きなんだという思いを口にしていました。人の幸福は神からの祝福、人の不幸は神からの罰という考えがこの時代にあり、また本人に思い当たることがなくても親や先祖の罪によって罰を受けることもあるとも考えられていたのです。(*3)
「自分がこんなに不幸な目にあっているのは、罪に対する裁きなのだろう。でもだからって。。。」そんな思いでしょうか。
とにかくこうして、ナオミは[モアブ生まれの嫁ルツ]を連れて帰ってきました。時あたかも大麦の刈り入れの始まるころであったと記録されていることが、次の場面を予告しているのですが、それはまた次回に。


おまけ

「わたしはもう年をとって、再婚などできはしません」と言ったとき、ナオミは何歳くらいだったのでしょうか。

男性はわかりませんが女性の場合、当時は10代で結婚し出産するのがごく普通だったといいます。仮にナオミが10代なかばで結婚して出産し、その息子たちが仮に20代前半くらいでルツやオルパと結婚したとすれば、それから10年ほど暮らしたという時点ではナオミはまだ40代だった可能性もあるわけです。
ナオミが「たとえ、まだ望みがあると考えて」と言っていることも考えると、「常識的には、再婚するには適齢期というものを過ぎているけれど、身体的には望みがないわけではないでしょう。だからといって、待つのですか?」という意味だと考えることもできそうです。

しかも聖書には、創世記のサラや、ルカ福音書のエリサベトなど、超々高齢出産の例もあるわけですし。

もちろんこれは仮定です。ただ、私たち(筆者も含めて)が聖書を読むとき、現在の社会の様子(結婚適齢期とか)なり、あるいは聖書を題材にした作品などに、影響を受けているということもあると思います。
たとえば聖書に出てくる人々が、ルネッサンス絵画やハリウッド映画に出てくるような金髪碧眼の白人だったのかというと、おそらく違うわけです。
あるいはたとえば、聖書に出てくる天使は翼があったのかというとこれも違うのです。翼を持つケルビムという存在も登場しますが、天使や神の使いと呼ばれている存在は、ガブリエルやミカエルといった名前の出てくる者も含めて、翼があった様子は聖書には書かれていません。まして幼児の姿で金髪の天然パーマだったとは聖書には記録されていないのです。


*1 ナオミ・キャンベルが日本の音楽番組に出演した際、MCのダウンタウンに「(その名前は)親が日本人か?」と質問されて「聖書から名前をとった」と答えていました。
ちなみに新約聖書には、アキラというこれまた日本人のような名前の男性が登場し、パウロから協力者と呼ばれています。(使徒18章、ローマ16章ほか)

*2 ルツ記の最後に名前が出てくるダビデ王は多くの歌を作った詩人で、旧約聖書の詩編に作品がいくつも残っています。それらの中にも、新共同訳では「主」と訳されていますが、底本ではヤハウェとなっていて、ダビデの時代にも神を「主アドナイ」という称号ではなく名で呼んで賛美していた様子がうかがえます。(ただし現在のヘブライ語詩編では、本誌でヤハウェと書いている四文字(英字のYHWHに相当)にアドナイと読むことを前提にした母音記号がふられています)。

*3 ヨハネ福音書9章2でイエスの弟子たちが身体障碍者を前にしてイエスに、この障碍は本人の罪によるものか、両親の罪によるものかと質問しています。イエスはどちらでもないと答えたのですが、弟子たちのこの質問から、本人のせいでなくても親の因果が子に報いることもあると考えられていたことがうかがえます。

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#181
作成:2009年5月25日

布忠.com