士師記 第8回

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普通なギデオン(3) 勝利と戦後(8章4~9章)

決着(8章4~12)

ミディアン側は、12万の兵を失ったとはいえ、いまだ1万5千が二人の王ゼバとツァルムナとともにあり、カルコルで陣を立て直しました。
このカルコルがどこなのかわかりませんが(*1)、敗残兵なのにそこで[安心しきっていた]と記録されていますから、かなり遠くまで逃げたのでしょう。

しかし、ミディアンがそんな遠くへ逃げるまで、ギデオンは何をしていたのでしょうか。
実は追跡の途中でひと悶着あったのです。

同胞諸部族の加勢があったものの、先頭に立って敵を追うのはギデオン直属の300人。ここまできて一人の死者も負傷による戦線離脱もないというところにヤハウェの守護を感じますが、さすがにヨルダン川を越えた頃には疲れきっていました。
それで、ヨルダン川の東にあるガド族の町スコトに着いたときに食料の補給を求めたのですが、町の指導者たちは「食料を供出しろというからには、逃げたあの二人の王にすでに縄をかけたとでもいうのか」と協力をこばんだのです。

まあ、わからないでもありません。ヨルダン川の東に位置するということは、これまでミディアンが来襲したときはいつも真っ先に被害にあっていたわけです。しかも、ギデオンがくる直前に敵が敗走するのを見たものの、1万5千もの大軍が逃げて行ったと思ったら、追撃してきたのはたった300人。ここで下手に協力して、ミディアンがこの300人を返り討ちにして戻ってきたらどんな目に合わされるかわかりません。

とはいえ、この状況でこんな対応をされれば、普通の人なら怒るでしょう。ギデオンも「ヤハウェがゼバとツァルムナをわたしの手に渡されたときには、お前たちのその身を荒れ野の茨ととげで打ちのめす」と言い捨てて先を急ぐことに。ところが、その先のペヌエルでも補給を断られ、ギデオンは今度は「わたしが無事に帰って来たなら、この塔を倒す」と言い残して行きました。

このあと補給を受けられないまま行軍したとは思えませんから、協力的な町もあったのでしょう。そしておそらくは何日かかったあと、ようやくカルコルに襲い掛かりました。
ミディアンにしてみればまさかの追っ手です。前述のとおり安心しきっていたものだから、最後はあっけないものでした。全陣営が大混乱となり、ゼバ王とツァルナム王がイスラエルの捕虜となって、戦いが終わったのです。

戦後処理(8章13~35)

カルコルからの帰り道、ギデオンは予告どおりスコトの指導者たちを「荒れ野の茨ととげ」で打ちのめしました。
茨というのはトゲの生えたツル状の植物ですが、聖書に出てくる茨というのはトゲが数cmもあるものだそうで、持つだけでもよほど気をつけないとかなりのケガをするといいいます(*2)。「長老たち七十七人」と記録されていますが、茨で打たれたら老人など一撃で大惨事でしょう(*3)。
ギデオンはペヌエルでも予告どおりに塔を倒しましたが、塔の倒壊にまきこまれたのか、住民に死者が出たことが記録されています。

往路でギデオンが二つの町に投げつけた言葉は、たぶん「聖書」ということで表現を抑えているのではと思います。それでも新改訳だと、ギデオンの言葉はスコトでは「荒野のいばらやとげで、あなたがたを踏みつけてやる」、ペヌエルでは「このやぐらをたたきこわしてやる」となっていて、もしかしたら実際にはもっと激しい言葉だったのではと思わせます。
そして帰ってきたときの有言実行ぶり。
エフライム族をなだめたときとは別人のようなギデオンのキレっぷりですが、あのときは少数で大軍に挑むという緊張が解けた直後で、今回は疲労困憊しながら敵を追う最中。これでおだやかだったり、何の怒りもなくゆるしたりしたら、逆に普通じゃありません。ギデオンはいろいろな意味で「普通の人」なんですね。

さて捕虜となった王たちですが、ギデオンはいきなり二人に「お前たちがタボル山で殺したのはどんな人々だったか」と切り出しました。問われた二人は、あらためてギデオンの顔を見たとき、ハッとしたことでしょう。そして「あなたによく似ておられました。皆、王子のような風貎でした」と答えました。ギデオンは「それは私の兄たちだ。もし彼らを生かしてくれていたら、お前たちを殺さなかったのに」と答えました。
ギデオンの兄たちの死についてはここにしか記録されていなくて、詳細はわかりません。士師ギデオンのもとでの戦争が始まってからはミディアンにはそんな余裕はなかったと思うので、おそらくはギデオンが立てられる以前のことでしょう。隠れ住んでいるところを見つかって、王の前に引き出されなぶりものにされたのか。あるいはレジスタンス活動のすえに捕らえられ、王みずから処刑したのか。

ギデオンは長男イエテルに、王たちを殺して伯父たちのかたきをうてと命じました。しかしイエテルは恐れて剣を抜くこともできません。「まだ若かったからである」と記録されていますが、ギデオン自身が一族の成人の中では最年少ですから、その息子となれば未成年で戦場に出たこともまだない、せいぜい10代くらいでしょう。そんな子供に討ち取られるという侮辱を王たちに与えようとしたのかもしれませんが、イエテルが尻込みしているのを見た王たちはギデオンに「勇気のある男だったら、自分でわたしたちを討つがよい」と言い出しました。「普通な人」ギデオンはこう言われては負けていられません。みずから立ち上がって、この二人の王を討ち取りました。

こうして、ミディアンがイスラエルを苦しめた7年間は終わりました。「ミディアン人は、イスラエルの人々によって征服されたので、もはや頭をもたげることができず、ギデオンの時代四十年にわたって国は平穏であった。」と記録されています(*4)。 ペリシテ人がイスラエルの敵として繰り返し登場するのに対し、ミディアン人はこれ以降は聖書に登場しなくなり、戦いと勝利の記憶として語り継がれるだけになるのです(*5)。逆にいうと、今次のミディアンの圧迫とそれに対する勝利がイスラエルにとってどれほど大きかったのだろうということです。

さて、これまでに出てきた士師の記録では、「勝利のあと、その士師が生きている時代は平和だった」で幕でしたが、ギデオンには続きがありました。イスラエルの民は、ギデオンに「王になってくれ」と言い出したのです。
しかしギデオンはこれを断りました。
これまでギデオンを何度も「普通の人」と書きましたが、こういう場合の「普通の人」の反応は、「これだけやったんだから、トップにしてくれてもいいだろう」と思うか、「ここまでだって自分の器量を超えてたんだから、これ以上はもう勘弁してよ」と思うか、どちらかではないでしょうか。

しかしギデオンはそのどちらでもありませんでした。自分の功績や器量を基準に考えず、「ヤハウェがイスラエルを治める」からといって断ったのです。彼が「普通の人」というのは、「神の民であるイスラエル人として、普通の人」なのです。

王になるのは辞退したギデオンですが、代わり、イスラエルが戦利品として得た金の耳輪を差し出すように求めました。
人々は喜んで差し出しましたが、それは1700シェケル(約19.5kg)にもなりました。その他にも多くの戦利品(ミディアン王の紫布の服や、ラクダの装飾品など)が差し出されましたが、ギデオンはそれをもちいてエフォド、つまり祭司が着用するための祭服を作り、自分の出身地であるオフラの町に置いたと記録されています。

これで今度こそ万事めでたしめでたし、となるはずでしたが、実はここまでに大問題の種があったのです。

話しは少しさかのぼりますが、ギデオンは出陣する前にオフラの町に祭壇を築いたと6章24に記録されています。イスラエルの陣頭に立つ者として当然、その祭壇でヤハウェに礼拝をささげてから出陣したでしょう。
ところがこのオフラという町は、ヨシュア記21章でレビ族に割り当てられた町のリストにでてきません。つまりギデオンは、祭司であるレビ族のいないところに、祭壇を築いたわけです。
もちろん、乾坤一擲の戦いを始めるにあたって、祭司を招いて祭儀をとりおこなってもらったと考えるほうが自然かもしれません。しかしそれでは、なぜ豪勢な祭服までオフラに置いたのでしょうか。

これについて、「ギデオンは出陣前の礼拝でもみずから祭司の役をつとめ、戦後もこのエフォドを着用して祭儀を執行したのではないか」という疑いが提案されています。
のちには、ダビデ王や、預言者となる前の下働き時代のサムエルも、亜麻布のエフォドを着用したと記録されています(*6)。だから「ギデオンがエフォドを着たのではないか」というだけでは、彼が祭司の職分を犯したとは言えないと思うのですが、士師記は「すべてのイスラエルが、オフラでギデオンに従って姦淫にふけることにな」ったと記録しているのです。
姦淫とは「ヤハウェとの契りにそむいた」ということでしょう。つまり、ヤハウェが制定した「祭司はレビ族」との定めにそむいて、全イスラエルが「レビ族ではないギデオンに従って、道に外れた祭儀を行った」ということではないかと思われます。

姦淫という言葉のとおり、ギデオンとともに全イスラエルが性的に乱れたという可能性もあります。というのも、ギデオンには多くの妻に加えて一人の側女がいたのです。
多妻ということ自体は問題ではありませんが(*7)、正式な婚姻をふまえていない側女との関係は、律法が禁じる姦淫です。

しかも、この側女から生まれた子アビメレクによって、次の問題が起きました。

ギデオンの子アビメレク(9章)

アビメレクは母の故郷シケムで、母方の(つまりギデオンの「側女」の)一族の支持を取り付けると、70人いた異母兄弟全員の暗殺を企てました。一人だけヨタムという者は取り逃がしましたが、あとは全部片付けると、シケム(*8)で王位についたのです。
アビメレクの名は「父は王」という意味。自分が「イスラエルが王に推戴したかったギデオンの息子」だというアピールで名乗ったのでしょう。

ここに及んで、ヨタムは危険を押して姿を現し、アビメレクを王としたことについてシケムの人々に訴えました。
それは誠意ある正しい行動なのか、と。
それはギデオンと一族を正当に遇し、彼の手柄にふさわしく報いることなのか、と。
ギデオンの子らを皆殺しにした者を、ただ身内だからというだけで王にしてよいのか、と。

ヨタムは最後に、胸を張って「正しく行動した」と言えるならイスラエル初の王を喜び祝うがよい、そうでないなら、アビメレクによって、アビメレクとともにシケムは滅びるだろう、と預言して逃亡しましたが、歴史はこの預言のとおりになります。

アビメレクとシケムの首長たちの間に神が「陰険な空気」を送り込んだ結果、首長たちアビメレクに反旗をひるがえしました。するとアビメレクはシケムを滅ぼし、廃墟に塩をまいたのです。(*9)
アビメレクはさらに、シケムとともに逆らったテベツも制圧。ところが、人々が逃げ込んだ塔に火を放って皆殺しにしようとしたとき、一人の女が塔から石臼をアビメレクに投げつけ、これが見事にアビメレクに命中して頭蓋骨を砕いたのです。アビメレクは虫の息で従者に「女に殺されたと言われないために、とどめを刺せ」と命じ、天幕で女に殺されたシセラの二の舞を舞うことは避けられましたが、こうしてシケムの町とアビメレクはともに滅んだのでした。

アビメレクが王だったのはたった3年。しかものちに登場するサウルが「イスラエル初代の王」と言われていますので、正史としては、アビメレクはシケムやテベツなど限られた地域で王を名乗っただけとされているようです。


*1 古代オリエント史に有名な「カルカルの戦い」が紀元前853年にオロンテス川畔でありました。このカルカルの位置を調べられなかったのですが、レバノンからシリア、トルコを流れるオロンテス川は、ヨルダン川からだとかなり北になります。ここまで敗残兵が逃げたとは思いにくいのでカルコルとカルカルは別かもしれませんが、もしここまで逃げたとしたらそれこそ「ここまではイスラエルも追ってこないだろう」と安心しきったことでしょう。

*2 キリストは十字架にかけられる前に、茨で編んだ冠をかぶらされたと記録されていますが、さわっただけでも怪我をまぬがれがたいのですからそうとうの傷を負ったでしょう。誰かが茨で冠を編んだはずですがその誰かもただではすまなかったはずです。

*3 長老という言葉のとおり高齢の者が少なくないとは思いますが、相撲協会の「若年寄」のように、老人と呼ぶには早いけれど「長老という役目」をつとめる者もいたかもしれません。現代でも、年齢と関係なく「長老」という役割を置いている教会もあります。

*4 「四十年」という場合、そのまま40年間という可能性もありますが、「長い間」あるいは「ひと世代」という意味で使われる場合も少なくありません。ここではおそらく「ギデオンが生きている間は」あるいは「ヤハウェが士師ギデオンによってイスラエルに勝利を与えたときに成人だった世代が現役の間は」という意味だと思われます。

*5 詩篇83編、ハバクク書3章など。特にイザヤ書は、のちに現れるメシア(キリスト)について預言するなかで、その日には神がイスラエルを圧迫する敵を「ミディアンの日のように折ってくださった。」と引き合いに出しています(イザヤ書9章4)

*6 サムエルについてはサムエル記一2章18、ダビデについてはサムエル記二6章14。

7 聖書には一夫多妻の例が多数ありますが、多妻それ自体を罪とされた例はありません。→聖書は一夫一婦制か

*8 9章でたびたびシケムと併記される「ベト・ミロ」は、シケムの町の一角にあった。

*9 塩をまいたのは、血と死でけがれた土地を清めようというのではありません。農作物を育てられないような土地にすることで、町の再建を許さず永遠に廃墟にしようというものです。

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#169
作成:2008年4月10日

布忠.com