士師記 第1回

menu

士師記の基礎知識

本誌もようやく、旧約聖書第7巻に入ります。例によって、第1回の今号では、全体像を簡単に見てみることにします。


タイトルと位置づけ

第5巻の『申命記』というのも読み方からしてわかりにくいものでしたが、この『士師記』というのもまず読み方からしてわかりにくいですね。
読み方としては、見たまんま音読みして「ししき」となります。では『士師=しし』というのは何じゃいなということですが。

時代背景としては、冒頭に[ヨシュアの死後](1章1)とあり、最後の一文に[そのころ、イスラエルには王がなく](21章25)とあるとおり、指導者ヨシュアの死のあとから、イスラエルが王制に入る前までということになります。この間およそ200年は、全国民を統一する政府もなく、政治的指導者もなく、首都さえありません。
これまで見てきたように、イスラエルは、まずアブラハム、イサク、ヤコブという「族長」が治める時代がありました。そしてヤコブの息子たちがそれぞれ族長となる12部族共同体の時代となるのですが、その始めはエジプトで奴隷となっていたので政体も何もありませんね。その後、モーセとヨシュアという指導者が立てられて、ここまでやってきました。
そのヨシュアも今は亡く、しかし初代の王が立てられるのはまだあと(旧約聖書第9巻『サムエル記一』に入ってから)という時代です。この時代に、特に困難な状況に襲われたときに「12部族共同体」の中でリーダーシップをとった人々が、士師と呼ばれています。
この士師たち歴代12人とその時代の記録が「士師記」に記録されているのです。ヘブライ語聖書では、第7巻は『ショーフェティーム』つまり「ショーフェート(士師)たち」と呼ばれています。いわば建国前史の英雄物語といえるでしょう。

士師記の著者は、まったく不明です。「そのころ、イスラエルには王がなく」という記述は、少なくとも士師記が1巻にまとめられたのは王制ができてからであるとうかがわせますが、それ以上のことはわかりません。預言者サムエル(イスラエルの初代の王サウルと、第二代のダビデとに、神が王に任命する儀式を執り行った)が著者である可能性が大きいとも言われますが、それ以上のことを言える材料はありません。


歴史的背景

士師記の記録がいつごろのできごとなのかというのは、聖書の他の書簡と同様、確定的に言うのがとても難しいです。
その理由としては、まず「聖書の記録を裏付ける他の史料」というものがきわめてとぼしいこと、そして聖書が時間の経過を追って書かれている年代記ではないということがあげられます。

まず、聖書の記録を裏付ける他の史料ということでは、たとえばエジプトの記録に「イスラエル」という名がでてくるのは「メルネプタハの戦勝碑」というものただひとつなのだそうで、これによって西暦紀元前1230年頃にイスラエルがカナン地方にいたことは裏付けられるものの、エジプトの年代記からはそれ以上のことはまったくわからない状況です。

また、聖書が年代記ではないということでは、たとえば士師記13章1でペリシテ人が40年間にわたってイスラエルを支配下に置いたことが記録されている一方で、士師記15章20ではこの40年のうちのどこかの20年がサムソンが士師としてイスラエルを治めた時代であると記録されていたり、のちの時代になりますがイスラエル第二代の王ダビデの存命中に第三代の王ソロモンが即位するなど、同時に進行していたできごとが別々に記録されているので「聖書に出てくる年数を単純に加算していっても年代は割り出せない」という事情があるのです。
さらに、士師記に記録されていることがらも時間順ではなく、「2章の中ごろ→1章から2章のはじめ→17章から21章→2章の後半から16章」という順番であろうと言われています。(17章以後があとから補足されたもののようです。)

このように断言しにくい部分があるものの、大体においては、エジプトがカナン方面への影響力を失いつつある一方で、西アジアに強大な国が存在していない時代のことであったろうと考えられます。
士師記の記録を見ると、この時代のカナン地方は群雄割拠に近い状態だったことがうかがえます。そんな中でイスラエルは、士師記ののちにはサウル王時代を経てダビデ王、ソロモン王のときに黄金時代を迎えます。一方でこれらの時代を通じて、ペリシテ人がカナンの地中海岸に侵入しつつあり、イスラエルにとっても断続的な脅威として存在します。これらのことは、カナン地方の西(エジプト)にも東(西アジア)にも超大国が存在しない時代だったのであろう、西のエジプトは第19王朝(紀元前1310~1200年)からあとの弱体化しつつある時代で、東ではアッシリアが紀元前13世紀頃の最盛期をピークに斜陽化しつつある時代だったときのことだろう、というわけです。


士師記の内容

士師記は、キリスト教の旧約聖書では「モーセ五書」に続く「歴史書」のうちの一つとして並べられています。

ユダヤ教のヘブライ語聖書(キリスト教の旧約聖書のもとで、目次の順序が異なる)では、ヨシュア記からが「預言書」と呼ばれています。預言者たちの名を冠された後続の書簡と区別して、士師記、サムエル記、列王記を「先の預言者たち」とも呼んでいて、これらの書自体が「歴史という預言者」であるというのです。

ところで「予言」と「預言」はどのように違うと思われますか?実は英語ではどちらも prophecy なのですが、日本(の主としてキリスト教界)では次のように説明されることがあります。

予言
「予」が「あらかじめ」と訓読みされることから「将来に起きることを前もって言うこと」の意味で使われる。
預言
「預」が「あずかる」と訓読みされることから「神からの言葉を啓示としてあずかり、人々に伝えること」の意味で使われる。神からの啓示が将来についてのことである場合もあるため、予言の意味を包含する。

ただし、「預」も「予」は同じ字「豫(予へんに象)」のことなる字体で、本来は文字としては意味の違いはないという話しもあります。ところで「あずかる」という訓読みをする字はもう一つ「与」というものがありますが、「神ヤハウェがイスラエルにどのように『関与』したか」「ヤハウェのすることに人がどのように『参与』したか」を言葉にした書という意味で「与言書」と書くこともできるかもしれません。

さて、ヨシュア記は「カナンをイスラエルにあたえる」というヤハウェの言葉が実現した記録でした。ヨシュア記の終わりの時点ではまだ多くの未占領地が残っていましたが、それにも関わらずヤハウェの約束は果たされたとされたのです。
ここで、歴史には禁物とされる「if」を持ち込みますが、もしもイスラエルが、ヨシュアの前で誓ったとおりにヤハウェに仕えたのなら、カナン全土はイスラエルが実効支配するところとなったはずです。
ところが実際には、イスラエルとカナン諸部族とは一進一退の状態が続きます。それはイスラエルがヤハウェに仕えなかったからであると士師記は語るのです。

士師記の展開は実にワンパターンで、「イスラエルがヤハウェの前に悪とされることを行う→ヤハウェはイスラエルに怒りを向け、他民族によってイスラエルを苦しめる→苦しみの中でイスラエルがヤハウェを呼び求める→ヤハウェが立てる士師によって、イスラエルは他民族から救われる」の繰り返しです。
先ほど、士師記は英雄物語であると書きました。12人の士師はほとんどが戦士ですが、祭司や預言者もいますし、女性も含まれます。しかしひとつひとつの記録は「英雄物語」というほど輝かしいばかりの内容ではなく、むしろヨシュア記が「勝利の書」とも呼ばれるのに対して士師記は「失敗の書」とも呼ばれるほどなのです。本当は、ヤハウェが士師を立てる必要がない社会であるべきだったのですから。

でもこれは「イスラエルがどれほど失敗しても、ヤハウェはイスラエルを捨てることはなかった」という記録だともいえます。子が人の道に外れたことをしようものなら涙を流しながらひっぱたいてでも連れ戻す親の愛にも似て、イスラエルが神の道から外れようという時にはこらしめてでも連れ戻さずにはおれない神の愛を、歴史というかたちで預言している書なのです。
これは新約の雛形(プロトタイプ)でもあります。神の愛は十字架において、イスラエルのみならずすべての人を罪から連れ戻すために、人をこらしめる代わりに神自身であるイエス・キリストを無残なまでにこらしめるというかたちで表されることになるのです。

上へ 次へ

#162
作成:2007年9月24日

布忠.com