ヨシュア記 第17回

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契約の更新(24章1~28)

現在のパレスティナ地方のほぼ中央、エルサレムからまっすぐ北にいったところに、シケムという町がありました。
アブラハムが故郷を離れてカナンに入ったとき、最初にヤハウェのための祭壇を築いたところです。(*1)
エサウから逃げたヤコブが故郷に帰ってきたとき、やはりヤハウェに祭壇を築きそれを「エル・エロヘ・イエスラエル(イスラエルの神である神)」と名づけたところでもあります(*2)。

このシケムに、ヨシュアは最後に全イスラエルを呼び集め、これまでヤハウェがイスラエルのために何をしてきたかを説き起こしました。
モーセもそうでしたが、ヤハウェとの契約関係について語られるときはまず「ヤハウェが何をしたか」が語られます。「信仰せよ、そうすれば御利益がある」ではなく、「すでにヤハウェから与えられた御利益を思い出せ、そして信仰せよ」という順序なのです。
ヨシュアを通してのヤハウェの語りかけは、ヤハウェがアブラハム(当時の名はアブラム)を選び出したことから始まりました。その頃はアブラハムもメソポタミアで異教の神々を礼拝していたのを、ヤハウェが選び出して召し上げたのです。さらにヨシュアは、その後のエジプトへの移住とそこからの救出、ヨルダン川に至るまでの戦いや、エリコ以降の「約束の地獲得」のための戦いと、イスラエル民族の重大事件を思い起こさせていきました。

その上でヨシュアは、イスラエルに今日この場での二者択一を迫りました。
ヤハウェに仕え、先祖がメソポタミアやエジプトで仕えていた神々を離れることを選ぶか。
あるいはヤハウェに仕えたくないなら、メソポタミアやエジプトの神々、あるいはこのカナンにいる部族の神々でも、仕えたいと思うものを選ぶか。
それを[今日、自分で選びなさい]というのです。

ヨシュアはイスラエルの民のどの一人に対しても、何も強制していません。ただし、自分の立場を明らかにすることによって、民に対して信仰を証言しました。[ただし、わたしとわたしの家は主【ヤハウェ】に仕えます。」と。
もちろん民は、ヤハウェがしたことの一つ一つのゆえに[わたしたちも主【ヤハウェ】に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。]と答えました。

ところがこれに対し、ヨシュアは奇妙な応答をします。[あなたたちは主に仕えることができないであろう。]というのです。なぜならヤハウェは「聖なる神」であり「熱情の神」だからだ、と。

「熱情の神」は、別の訳では「ねたむ神」と表現されています。どちらが原語のニュアンスに近いか筆者にはわかりませんが、「ねたむ神」というのは一神教の神が「二君に仕える」ということを許容しない性格を的確に表現するものだと思います。つまり「ヤハウェに仕えながら異教の神々とも付き合っていく」とか、あるいは「聖なる神に仕えながら堕落した生活をする」というのは、二人の君主に同時に仕えようとするようなもので、そのような不忠にはヤハウェは怒りを向けるのだ、とヨシュアは言っているのです。「だから他の神を選ぶなら今日選べ」というわけですね。

これに対し民は[いいえ、私たちは主【ヤハウェ】を礼拝します。]と答えます。そして、ヨシュアが「あなたたちがヤハウェを選び仕えるということの証人は、あなたたち自身だ」というと、そのとおりだと答えたのです。
さらにヨシュアが「それでは、あたたたちのもとにある外国の神々を取り除け」と外面の行動を求め、「イスラエルの神、主【ヤハウェ】に心を傾けなさい。」と内面も忠実であることを求めると、民は[わたしたちの神、主【ヤハウェ】にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。]と答えました。

民のこの信仰宣言を聞いて、その日に[ヨシュアはシケムで民と契約を結び、彼らのためにおきてと法とを定めた。]と記録されています。あれ?契約を結ぶのは「ヤハウェとイスラエル」なのでは?
ひとつの考え方として、シナイ山での契約のときのモーセの役割をなぞるものではと思われます。あの時、モーセだけがヤハウェに近づける者だったので、ヤハウェはモーセに法を語り、その法をモーセが民のところに戻って読み聞かせ、民はモーセに向かって「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と答えるという順で契約が締結されました(*3)。それと同じように、この場面のヨシュアはイスラエルの民と神ヤハウェとの間を仲介する役割だったのではないかと思われます。

こうしてあらためて契約が結ばれたあと、ヨシュアはこの契約の証拠として、大きな石を据えました。世代が移ろい、この契約に関して「自分自身が証人」と言った人々がいなくなっても、この石が証拠として残るのです(後の時代、士師記9章6で「シケムの石柱」という言及がでてきます。)


おまけ

ヨシュアの問いに答えて、イスラエルは「この方こそ、わたしたちの神です。」「わたしたちは主【ヤハウェ】を礼拝します。」「主【ヤハウェにわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」と3度、信仰を表明しました。
筆者はこのことが、ペトロの3度の信仰表明に重なるように思えます。

十字架の死ののちによみがえったイエスが弟子のペトロに「わたしを愛するか」と問い、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答え、このやりとりが3度繰り返されました(*4)。
実はペトロは、イエスが十字架にかかる前に3度イエスを裏切っていたのですが(*5)、イエスがペトロに信仰表明を3度させたことは、ペトロの3度の裏切りという事実を消す機会を与えるものだったのではないかとも言われています。

イスラエルもここに至るまで、3度どころではなく何度も何度もヤハウェに背を向け裏切るようなことをしてきました。そんなイスラエルが神ヤハウェに対して信仰を表明する機会を与えられた、しかもその場の空気というかノリで1度というのではなく、繰り返して3度も、という記録なのではないかと思うのです。

あるいはもしかしたら、イエスは(旧約)聖書からの引用が常に適切でしたし、同じ名前を持つヨシュア(ギリシャ語の「イエス」はヘブライ語の「ヨシュア」と発音違いなだけ)のやり方がイエスのやり方の雛形となっているのかもしれません。


*1 創世記12章1~7。⇒創世記第18回

*2 創世記33章18~20。⇒創世記第43回

*3 出エジプト記24章2~8。⇒出エジプト記第25回

*4 ヨハネによる福音書21章14~17。

*5 ルカによる福音書22章54~62。

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#160
作成:2007年6月10日

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