ヨシュア記 第16回

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ヨシュアの遺言(23章)

「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」
これはかつて、ヤハウェがモーセを召し上げ、その果たすべき任務を告げたときの、ヤハウェの誓いの言葉です。(*1)

この任務はその後モーセからヨシュアに引き継がれました。そしてヨシュアに率いられてイスラエルはヨルダン川を渡り、約束の地に入ったのです。
それから戦いの連続でしたが、全面征服はまだ見ていないものの、ヨシュア記12章までに勝利は定まり、そして13章で「ヨシュアが多くの日を重ねて老人となったとき」に、12部族に土地の分配が行われたことをここまで読んできました。

23章は、[主【ヤハウェ】が周囲のすべての敵を退け、イスラエルに安住の地を与えてから長い年月が流れ、ヨシュアは多くの日を重ね、老人となった。]で始まっています。110年に及ぶヨシュアの生涯がいよいよ終わりを迎えようとしているのです。
それを悟ったヨシュアは全イスラエルを呼び寄せて、後事について教え諭しました。その最初の言葉は、イスラエル自身が何を見たのかについてでした。

あなたたちの神、主【ヤハウェ】があなたたちのために、これらすべての国々に行われたことを、ことごとく、あなたたちは見てきた。あなたたちの神、主【ヤハウェ】は御自らあなたたちのために戦ってくださった。

約束の地に入ったイスラエルというのは、ヤハウェが海を二つにわけるというとんでもない奇跡を見せたときには、未成年だったか生まれていなかった世代です。しかしこの世代も、ヤハウェがヨルダン川の水を堰きとめてイスラエルを渡らせたことに始まって、難攻不落のエリコを超自然的に打ち破り、烏合の衆にひとしいイスラエルが強力な部族に勝ち続けるという奇跡を体験してきたのでした。そして今や、東はヨルダン川から、西は太陽の沈む大海すなわち地中海にいたるまでが、12部族に分け与えられその一族伝来の土地とされたのです。
すべては、神ヤハウェの力によるものでした。それでヨシュアは[だから、右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい。]と命じます。これははじめにヤハウェがヨシュアに語ったこと(*2)によるもので、その時は新指導者ヨシュア個人に向けてのものでしたがその結果をイスラエルも見てきたのだから、今後ともヤハウェの言葉に忠実であれとするものです。

モーセの教えの書に書かれていることというのは具体的には、十戒の厳守、特に「ヤハウェのほか何者も神としてはならない」ということです。そのためにヨシュアは、まだ征服していない諸部族との雑婚を禁じました。異民族=異教徒と交わることによってその宗教の影響を受け、ヤハウェを離れて異教徒の神々を礼拝したりすることが懸念されたのです。

民族差別と言うなかれ。実際にイスラエルは、シティムで宿営していたときにモアブ人の罠にかかっています。イスラエルの男たちが[モアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた]ことによりヤハウェが[イスラエルに対して憤られ]て、つまりスケベ心のせいで神の裁きにあい犠牲者を出すに至ったのです。(*3)
まだ後代には、名君のほまれ高いソロモン王も、政略結婚で後宮に入った妻たちのためにヤハウェから離れてしまい(*4)、その結果もあって国が分裂するに至ってしまいます。

ヤハウェについてさえいればイスラエルは向うところ敵なしなのですから、道徳的な問題である以上にこれは安全保障上の問題です。つまりイスラエルという超弱小国が、ヤハウェという圧倒的超大国と同盟を結んでいるようなもの。イスラエルがヤハウェの庇護の下にいるなら何者もイスラエルの前に立ちはだかることはできませんが、イスラエルがヤハウェに背を向けてその庇護の下から飛び出してしまうなら、もうイスラエルを守る者はいないのです。
この同盟関係のおもしろいところは、ヤハウェはイスラエルのために戦いますが、イスラエルはただヤハウェを愛するだけでよいというところでしょう。全能の神ヤハウェを守るためにイスラエルが戦うなどということはありえませんから、一般的な軍事同盟とは異なります。ヤハウェはイスラエルに『勝利』を与え、イスラエルはそれに『信義』で応えるのです。

もしこの信義に反するようなことをするなら?つまり、ヤハウェが滅ぼせと命じた部族を滅ぼさずに、馴れ合ったり婚姻関係を結んだりするなら?
ヨシュアは明確に宣言しています。その時にはもはや、ヤハウェはそれらの部族をこの土地から追い払わず、イスラエルのほうがこの「約束の地」から滅びうせるのだと。
ヨシュアは今、この世のすべての者がたどるべき道、つまり陰府への道を行こうとしています(*5)。その終わりの時に臨んでイスラエルに思い出させたいことはただ一つでした。

あなたたちは心を尽くし、魂を尽くしてわきまえ知らねばならない。あなたたちの神、主【ヤハウェ】があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。

「心を尽くし、魂を尽くし」という表現は旧約聖書だけでも18回も出てきます(*6)。ヘブライ語の慣用表現でしょうか、「全身全霊で」ということでしょう。

後の時代には新約聖書で[信仰とは、…見えない事実を確認することです。]と語られています(*7)。そうすると私たち現代人には、信仰とは不確かな根拠によるものかとも思いたくなるものですが、当時のイスラエル人にとっては見えないものどころか、自分の目で見て、身を持って体験したものです。しかもその体験はどんなものかといえば、ヨルダン川がせきとめられるのを見たし、エリコの城壁が崩れるのも見たし、客観的な戦力分析からは勝てるはずのない強力な部族にも勝利してきたのです。
敵を滅ぼすヤハウェの力を見てきたイスラエルにとって、ヤハウェと結んだ契約を一方的に破棄して他の神々に従い、仕え、礼拝するならどうなるか、想像の必要もないくらいなものだったかもしれません。

しかしそれでも、モーセもヨシュアも重ねて念を押す必要を感じるほど人は忘れっぽいものであり、そして実際にイスラエルは忘れて行ってしまうのです。
旧約聖書を読み進めれば、それはイスラエルがヤハウェに背を向けた歴史の記録でもあることがわかると思います。


*1 出エジプト記3章8

*2 ヨシュア記1章7。⇒ヨシュア記第3回を参照。

*3 民数記25章。⇒民数記第16回を参照。

*4 ネヘミヤ書13章25~27。ここでは26のみ以下に引用します。

イスラエルの王ソロモンすらも、このようにして罪を犯したのではなかったか。数ある諸国の中でも彼のような王はおらず、神に愛され、神によってすべてのイスラエルの王に立てられた、その彼でさえ、異民族の妻たちによって罪に引き込まれてしまった。

*5 陰府は、新改訳では平仮名で「よみ」と訳されていますが、人が死の後に行くところです。人が神の国(天国)に迎えられるか、火の池(地獄)に投げ込まれるかは、この世の終わるときの裁き、いわゆる最後の審判で決定されます(ヨハネ黙示録20章11-15、同21章23-27)。
キリストを信じる者は裁かれないと書かれているので(ヨハネ福音書3章18)、死の直後に天国に迎えられると考えられますが、ヨシュアはキリストが世に来るより前の時代の人物なので「キリストを信じた者」ではありませんから、今も陰府で最後の審判を待っていると考えられます。
ただ、キリストは十字架で死んでから三日後に復活するまでの間は陰府に行っていたので(使徒2章30-31、1ペトロ3章20)、想像の域を出ませんがそのときにヨシュアがキリストに会えて信じたなら今はすでに天国にいるかもしれません。こちらの拙文も御参照ください。

*6 新共同訳の場合。新改訳では「心を尽くし、精神を尽くし」という表現で旧約に19回。

*7 ヘブライ人への手紙11章1

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#159
作成:2007年5月20日

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