ヨシュア記 第14回

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逃れの町(20章)

約束の地カナンの各部族への割り当てがおわったところで、神ヤハウェはヨシュアに[モーセを通して告げておいた逃れの町を定め]るようにと指示しました。
「逃れの町」とは、人を殺してしまった者が逃げ込むところとするようにとヤハウェがモーセに命じていたもので、レビ族に与えられる48の町のうちの6です。(*1)

ただし、誰でも殺人を犯した場合にはここに逃げ込めば助かる、というわけにはいきません。それでは十戒の「殺してはならない」や、レビ記24章17や民数記35章16以下のの「殺人者は必ず死刑」が空文化してしまいます。
逃げ込めるのは、[意図してではなく、過って人を殺した者]つまり個人的な怨みつらみや怒りによるものではない過失致死の場合に限定されました。逃れの町に逃げ込む際には、町の門のところでその町の長老たちに弁明しなければなりません。民数記35章22以下や申命記19章には、故意ではないケースが具体的にかかれています。

殺すということをヘブライ語でどのように表現しているか未確認なのですが、英語訳聖書が手がかりになるかもしれません。日本語では同じ「殺す」ですが、英語訳では、十戒で禁じられているほうは murder、逃れの町に逃げることがゆるされるのは kill した場合、となっています。
このことは「十戒で殺人を禁じられているはずのイスラエルがなぜカナン人を皆殺ししまくれたのか」という疑問への答えになるかもしれません。一般に戦争で敵を殺すことは kill だからです。

ただしこの規定はのちに(現代からなら2000年ほども前に)、キリストによって「敵を愛せ」と改定されています。キリスト教徒の歴史は異教徒虐殺の歴史でもありましたが(*2)、聖書を都合よく解釈する悪例の一つだと思います。

ところで、逃れの町が必要なのは、身内を殺されたものは殺した者に復讐する権利があったためです。殺した者は「殺されなければならない」のですから(*3)、復讐は権利というよりも義務に近いものだったかもしれません。
しかし前述の通り、殺されなければならないのは murder だけ。そこで、過失でkillしたものが、[共同体の前に出て裁きを受けるまでの期間]生き延びるための場所が設けられるわけです。もし裁きを受ける前に逃れの町から出るなら、そこで復讐者に殺されても文句は言えませんでした。

ちなみに、古代ギリシャなどでは過失による殺人の場合、殺害者は国外追放となったそうです。
でもイスラエルの場合は、神の民の一人である者を、神から与えられた約束の地の外へ国外追放するわけにはいかなかった、という理由もあったのだろうといわれています。

前述のとおり、裁きを受けるときには町を出られるのですが、そのほかにもうひとつ、大祭司が死んだ時にも逃れの町から出られるとされています。
[その時の大祭司が死ぬまで、町にとどまらねばならない。殺害者はその後、自分の家、自分が逃げ出してきた町に帰ることができる。]という規定です。
ただ、これは普通の恩赦ではありません。イスラエルでは大祭司は、民族全体の罪をあがなう役目。その大祭司が死んだ時は、その死によって、過失致死の過失もあがなわれるという規定なのです。

これは、のちに実現されることのプロトタイプとなっています。のちに、完全な大祭司であるキリスト(*4)の十字架での死によって、キリストによるあがないを受け入れるすべての人の罪が赦される道がひらかれるのです。


*1 民数記35章。⇒当サイトでは民数記第21回
なお、モーセ存命中、まだ荒野をさまよっていたときにこの命令が与えられていることについて、モーセ五書の内容がモーセの時代ではなくカナン定住後あるいはもっと後に書かれたのだと考えることも可能ですが、本誌としては、荒野の放浪中に命じられたことがカナン定住後に実現されたと読みます。

*2 小室直樹氏は著書「日本人のための宗教原論」(徳間書店。ISBN4-19-861168-8)の中で、キリスト教徒が植民地を獲得した時に何をしたかを指摘しています。彼らは現地の異民族(異教徒)を殺戮し、そののちそこにアフリカから奴隷を連れてきました。南米文明を滅ぼしたピサロだけでなく、コロンブスもマゼランも異教徒を殺しまくっています。
(キリスト教国と呼ばれる国々の植民地政策を、日本が朝鮮や台湾を「植民地化した」というようなレベルで見ることはできません。逆説的に言えば、朝鮮半島のように人口が増進したり、台湾のように灌漑の整備による食料増産が起こったりしているようでは、とても「これが日本の植民地でござい」などとは言えないくらいです。)

小室氏は、それはヨシュア記で神が異教徒を殺せと命じているのに従ったまでのことで、宗教に熱心であればあるほど熱心にそうしたのだと指摘しています。
この本はキリスト教について、教会に行っていれば小学生でもわかることがわかっていない(それとも意図的に無視している?)ところがあり、私もキリスト教徒の一人としていろいろ言いたいこともあるのですが、歴史の中でキリスト教徒が実際に何をしてきたかということから、目をそむけることはできません。

しかしそれは、「聖書が奴隷制度を認めている」「聖書が男尊女卑を認めている」というのと同様に、キリスト教という「宗教」の「当時の教理」ではあったとしても、キリストという「神」による「福音」ではありません。
少なくとも「キリスト教徒」であれば「敵を愛せ」と命じられていることを無視はできない。キリスト自身が、「神を愛する」の次に「人を愛する」ことがすべての戒律の中で重要であると宣言していますし、味方だけ愛したからといって何の意味があるかとも教えています。
仮に新約聖書にあるキリストのことばを読まず旧約聖書だけを読んでいたとしても、本誌でこれまで見てきた範囲でも、神の民(ユダヤ人)が選民思想というイメージとは裏腹に、異邦人に対してどんなに許容していたかがわかるはずです。
(グーテンベルクが印刷機を世に送り出す以前は、一般人が聖書を入手するというのはほとんど不可能だったでしょうし、仮に入手したとしても、江戸時代で識字率が70%ほどもあった日本と違って、読み書きができるのはごく一部の階級に限られていたという事情もあります。つまり、キリスト教徒でも聖書を読んだことのある者はそうそういなかった。そうすると、仮に船長が「私はラテン語は読めないが、異教徒(異民族)は殺さなければならないと聖書に書いてあるそうだ。」といえば、ましてや船員は確かめようもない、そんな事情もあったことでしょう。)

*3 「人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。」レビ記24章17

*4 神キリストであるイエスが究極永遠の大祭司であることについては、ヘブライ人への手紙の全編を参照。特に6章20、7章23~8章1、8章6、9章11~14など。

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#157
作成:2007年2月10日

布忠.com