ヨシュア記 第2回

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ヨシュア記を読むにあたっての注意

出エジプト記の後半あたりからの、戒律のこまかい条項などを(がまんして?)読んで来たあとで、ヨシュア記は軍記ものといっていいような勇ましくも興味深い巻になります。

しかしこれを「神の名のもとに殺戮を繰り返した記録」と思うと、「神は愛なり」はどこへ行ったのかという疑問が出てきます。この点を、ヨシュア記を読み進める前に整理しておく必要があると思います。
私たち人類はいつの時代も宗教を政治に利用しようとしてきました。ヨシュア記も注意深く読まなければ、某国大統領のように戦争を進める演説のたびに国民に「神の祝福を」と言って宗教を利用するようなことにもなりかねないのです。

さて、たとえばエリコ攻略戦について、6章21にこう記録されています。

(イスラエルはヤハウェの命令に従って)男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことご とく剣にかけて滅ぼし尽くした。

本誌では新共同訳聖書という翻訳を主に使っていますが、この最後のところを新改訳聖書では[すべて剣の刃で聖絶した。]としています。
この「聖絶」は、これはヘブライ語のヘーレムあるいはハーラムという単語で、もともとの「閉じる」という意味から転じて「一般的な用途に当てることを禁じ、神のために聖別する(聖なるものとして他から分離する)こと、あるいは、そのささげられたもの」を意味します(新聖書辞典より)。
たとえばレビ記27章28は新改訳では[すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。]です。

ところが申命記7章26には[忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。](新改訳)とあります。
最も聖なるものが、忌みきらうべきものであるとは、どういうことでしょうか。新改訳で「聖絶する]としている箇所を、新共同訳では「奉納する」としたり「絶滅させる」としたりしています。今までモーセ五書を読んできた範囲では、神のものとして奉納されるものは、きよく、けがれのないもの、という印象があるのではないでしょうか。

正直なところ、聖絶(ヘーレム)という言葉の意味は、筆者にはよくわかりません。
通常の(つまり人間の過ちの中での戦争における)絶滅と区別されるものとして「聖絶」という新語を考え出した新改訳聖書の功績は大きいと筆者は思うのですが、一方で「『聖』の字をつければ何でもアリかよ」という見方もできます。聖戦の名のもとに一般市民を殺傷するテロリストとどこが違うのかと。

アウグスティヌスは「正戦」という言葉を使いました。しかし戦争に正しいも悪いもないということを、現代の私たちはすでに知っています。私たちの知っている戦争とは、外交問題をテーブルで解決する代わりに(あるいはテーブルで失敗したので)もちいる外交上の一手段です。
では、聖絶を理解するのに「当時は人間の倫理観も宗教性も未発達だった」と考えるべきでしょうか。確かに神は人間の理解力に従って啓示を示しますが(*1)、神の真理は時代に関係無く普遍的です。時代によって変化するものを真理とは言いません。

ではどう考えたらいいのでしょうか。
答えは、イスラエル人はみずからの武力でパレスティナを「侵攻」するのではなく、戦うのはヤハウェ自身である、というところにあります。イスラエルはそのために用いられるにすぎないのです。
ヤハウェはある意味で恐ろしいほどに公平です。ヤハウェはイスラエルを使ってカナンの諸民族を討ったように、のちにイスラエルがヤハウェに背き罪を重ねると、バビロンやアッシリアなどの国を使ってイスラエルをも討つのです。
つまりヤハウェにとっては、ノアの時代に罪深い者たちを「洪水を使って」滅ぼしたことも、ソドムやゴモラを「火と硫黄を使って」滅ぼしたことも、カナン人を「イスラエルを使って」討ったことも、そのイスラエルを「異教徒を使って」で討ったことも、まったく同じ話しなのです。

この公平さの前には、護教的な解釈をする余地さえありません。
あえていえば、イスラエルにだけは回復の約束を与え、滅ぼし尽くさなかったというところが、ひいきっぽく見えるかもしれません。しかし、「自分たちはヤハウェの民であり、異教徒は神を知らないけがれた民である」といういわゆる選民思想にとって、ヤハウェが異民族を使ってイスラエルを討つということは、絶滅されるれ以上の罰だったのです。親が子をこらしめるのに、よその子を使っていじめさせるようなものですから。
実際イスラエルにとって、神がイスラエルを差し置いて異民族を愛したとすることは、耐えがたいことでした。(*2)

そうすると読者は次に「神ヤハウェは、イスラエル人だろうとカナン人だろうと、罪深い者には罰を与えるということはわかった。しかしそもそも、なぜ殺すのか。神の愛とやらはどこへいったのか」と思われるかもしれません。
これまでモーセ五書を読んできた範囲でも、ことにエジプト脱出以来、イスラエル人だけでもヤハウェに殺されたのはそうとうな数です。少なくとも、最初にカナンに入ろうとした当時に成人だったイスラエル人は、ヨシュアとカレブの二人を残して全員が約束の地に入ることを許されず、この40年の間に死んでいます。そのほとんどは自然死だったでしょうが、他に火で焼かれたり、地面が割れて呑みこまれたり、ヤハウェに従うことを選んだ同胞に処刑されたりした者も少なくないのです。神が愛だというなら、なぜそこまでするのか?

聖書の大前提に戻りましょう。人間はヤハウェに創造されましたが、自分の意思でヤハウェに背き、勝手に生きることを選んでいます。このためにそもそも人間はすべて滅ぼされるべき者なのです。洪水で滅んだ人々もソドムやゴモラの住人もカナン人も、そして私たちもすべてです。

しかし一方でヤハウェは、私たち人間が一人も滅びないことを願ってやまない神なのです(*3)。だから必ず、滅ぼす前に猶予を与えます。アダムとエバにも、人類最初の殺人者カインにも、悔い改める猶予を与えました(*4)。洪水の前にも7日間の猶予を与えました(*5)。カナン人に至っては、アブラハムに予告してから400年も待ちました(*6)。創世記には、アブラハムを神の預言者と知る人々も出てくるのです(*7)。
それでもカナン人は、罪が極みに達してしまったのです。もっとも、400年も経っていますから、アブラハムを知らないカナン人のほうが多かったかもしれません。しかしそのために出エジプト以来、ヤハウェは意図的に派手な勝利を重ねて、イスラエルの神である自身の偉大さを宣伝してきたのです(*8)。それでエリコ攻略戦の際には、エリコ人はみな、イスラエルの神が偉大であることを知っていました(*9)。わずか一家族ながら、イスラエルに降った者もあるのです。

ヤハウェは、いきなり断罪することはありません。後の時代にも、必ず預言者を送って「悔い改めなければ滅びる」と予告しました。
ヨナ書には、ヤハウェがイスラエル人預言者を異邦の首都に派遣したら、王をはじめ全員が悔い改めたのでヤハウェは滅ぼすのをやめたと記録されています。ここにヤハウェの愛があるのです。

一方で、悔い改めることを選ばない自由も人間には与えられています。ヤハウェは人間を、自由意思を持つ者として創造したのです。
ヤハウェが滅ぼすのは、滅ぼされる自由を選んだ人々だけなのです。


*1 マルコ4章33

*2 ルカ福音書4章25以下

*3 ペトロの第二の手紙3章9およびヨハネ福音書3章16

*4 創世記3章の失楽園の記事で、16節以下で断罪する前に11節以下で弁明の機会を与えている。またカインには、創世記4章10節で断罪する前に9節で弁明の機会を与えている。

*5 創世記7章4節で洪水を[七日の後]と予告している。なぜ神は人間を試すのかのページも参照。

*6 創世記15章13-16のヤハウェからアブラハムへの予告[あなたの子孫は異邦の国(エジプト)で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。(中略)ここ(カナン)に戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。]

*7 創世記20章7、21章22など

*8 ヨシュア記4章24[このようにされたのは、地のすべての民に、主【ヤハウェ】の手に力のあることを知らせ、あなたがた(イスラエル)の神、主【ヤハウェ】をつねに恐れさせるためである]そのほか出エジプト記14章4、申命記2章25など

*9 ヨシュア記2章9-11で、エリコ人ラハブはイスラエルの斥候にこう言っている。[主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。(中略)それ(これまでイスラエルが諸王を征討してきたこと)を聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。]。

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#145
作成:2005年4月24日

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