申命記 第18回

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モーセの死(32章48節~34章)

最後の恵み(32章48節~52節)

[その同じ日に、]つまり、ヤハウェから教えられた歌をモーセが民に歌い聞かせた日に、ヤハウェはモーセにこう言いました。

エリコの向かいにあるモアブ領のアバリム山地のネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの土地を見渡しなさい。あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。

モーセの兄であり初代の大祭司だったアロンがホル山で死んだように(*1)、モーセもメリバ事件のあやまち、つまりヤハウェこそ聖なる神であるのに自分が神であるかのような言い方(*2)を(たぶんうっかりと)してしまったことによって、「約束の地」カナンに入ることができないのです。

ヤハウェもこの功労者モーセを約束の地に入れてやりたかっただろうと思います。しかしヤハウェは神であるために、ヤハウェを差し置いて自分が神であるかのような発言をしたモーセを見逃してやることができないのです。

そこでヤハウェは、[わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見る]ことだけは許可してあげたのです。

遺言(33章)

33章はついに、[これは神の人モーセが生涯を終えるに先立って、イスラエルの人々に与えた祝福の言葉である。]という書き出しです。いよいよ時が迫っているのです。

モーセは、シナイ半島からこれまでのヤハウェの働きをほめたたえてから、ヤコブが息子たち(イスラエル12部族の祖)を祝福した(*3)のにならってか、部族ごとに預言的な祝福の言葉を告げました。

ルベン族が細く長く存続するように。

ユダ族が孤独になってもヤハウェが守るように。(のちのイスラエル王国は、ユダ族のソロモン王の圧政に他の部族ががまんできなくなり分裂します。(*4))

レビ族が祭司部族としてのつとめをまっとうするように。

ベニヤミン族がヤハウェの守りのもとに住まうように。(神殿とエルサレムはベニヤミン族の土地に立てられることになります)。

ヨセフ(エフライム族+マナセ族)の土地にヤハウェの祝福があるように。軍事的にも栄光があるように。

ゼブルン族には海からの富が、イサカル族には陸からの富があるように。

ガドには、ガドのゆえにヤハウェがたたえられるほどの勝利と反映があるように。

ダンは獅子の子が踊り出るように戦って勝利するように。

ナフタリは、ヤハウェの恵みに満ち足りて、ガリラヤ湖とその南を手に入れるように(神キリストもガリラヤを宣教の中心とすることになります)

アシェルは、ヘブライ語で「幸せ」という意味の名のとおり、最も祝福され同胞に愛されるように。

そして最後にモーセは、イスラエルをエシュルン(高潔なる者)と呼んで、その全体を祝福したのです。
少々意訳して要約していますので、聖書をお持ちの方は読んでみてください。

ところで数えてみると、11部族の名前しか出てきません。マナセ族とエフライム族はあわせて、エフライムとマナセの父ヨセフの名で祝福されているのですが、よくみるとシメオンの名がないのです。

シメオン族は、民数記1章の第1回人口調査では12部族中3位の兵役可能人数でしたが、民数記26章の第2回人口調査では3分の1ほどまで激減し、12部族中最小になっています。
ヤコブの祝福的遺言の中でも、シメオンはイスラエルの中に散らされると予告されていました。ヨシュア記19章の段階でもシメオンはひとつの部族として登場していますので、このモーセの遺言の時点ではまだ他部族に吸収されていなかったはずなのですが、申命記が1巻の書物として編纂された頃には忘れられるような存在になっていたのかもしれません。

モーセの死(34章1節)

すべてを語り終えたモーセは、先刻のヤハウェの指示に従って、[ネボ山、すなわち…ピスガの山頂]に登りました。
たとえば聖書の中でもホレブとシナイは同じ山を指す別名ですが、ネボとピスガは聖書中でも別の山を指しています。それがなぜ同一視する表現になっているかわかりませんが、少なくともネボより西にあるピスガからなら、約束の地をもっと近くで見渡せることになります。

その山頂で[主【ヤハウェ】はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた]と記録されています。
死海の東にある標高700mのピスガから肉眼で見渡せる範囲は限られています。仮にモーセが老いてなお、サバンナの狩猟民族なみの視力を持っていたとしても、少なくともガリラヤ地方にある1000m級の山の向こう側は見えないはずです。しかしヤハウェはモーセに、西は地中海、北はガリラヤ地方、南は紅海に接するネゲブまで見せたと記録されているのです。(*5)

ヤハウェは、肉眼ではない方法でこれらを見せたか、それともモーセを空高く持ち上げて見せたのでしょうか。
筆者の想像ですが、先ほどのネボとピスガが同一視されていることから、そのはるか上空からモーセは見たのではないかと思います。
SFチックなようですが、悪魔サタンでさえイエス・キリストに同じようなことをできたのですから(*6)、神ヤハウェが何らかの方法で「約束の地」のすべてを見せたことを疑う必要もないでしょう。

そしてこの場で、モーセは死にました。
享年120歳、しかし[目はかすまず、活力もうせてはいなかった。」とあります。衰えて死んだのではありません。死んだというより、ただ現役を引退しただけであるかのようです。

モーセの遺体については、以下のように記録されています。

主【ヤハウェ】は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。

神ヤハウェ自身がモーセの遺体を葬ったというのです。
モーセほどの大人物、下手をすれば神格化されかねないような気がします。それをふせぐために、ヤハウェの手で遺体が隠されたのかもしれません。

申命記の結びのことばは、モーセにもっともふさわしい弔辞だと思います。

イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主【ヤハウェ】が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力あるわざとあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。

さて、イスラエルはモアブ平野で30日の間、喪に服して泣き続けました。そののち、モーセから「知恵の霊」を豊かに受け継いだヨシュアが立ちあがると、[イスラエルの人々は彼に聞き従い、主【ヤハウェ】がモーセに命じられたとおりおこなった。]のです。
その様子は、つまりヨシュアに率いられたイスラエルがカナンを征服していく様子は、旧約聖書第6巻「ヨシュア記」に記録されています。

最後に「考える葦」で有名なパスカルの言葉をひとつ。

神を愛することは『申命記』の全部にわたってすすめられている。
(パンセ 断章610)


*1 民数記20章22~。

*2 民数記20章10。

*3 創世記49章。→本誌サイトの創世記第61回

*4 列王記下12章16~17

*5 ヤハウェがモーセに見せた範囲は、[ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまで]と記録されている。
ナフタリ族の地は、キネレト湖とも呼ばれるガリラヤ湖の北西。
エフライム族の地は死海の北西、エルサレムの北方。マナセ族の地はエフライムの北に隣接。
ユダ族の地は死海から西の海(地中海)の間。(ただし地中海沿岸はペリシテ人の版図)。
ネゲブはユダの南の地方一帯。紅海のアカバ湾沿岸まで含む。
エリコはエルサレムの北東。
ツォアルは諸説あるが、ルベン族の地(死海の東側)のどこからしい。

*6 マタイ福音書4章5および8

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#143
作成:2005年2月4日

布忠.com