申命記 第15回

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回復の約束(29章28~30章10)

聖書が通常の法律と違うのは、法律には違反した場合の報いしかないのに対し、聖書には遵守した場合の報いも明記されているという点です。遵守した場合の報いが「祝福」、違反した場合の報いが「呪い」です。
モーセは[隠されている事柄は、我らの神、主【ヤハウェ】のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。]と教えています。人間には全てが明かされているわけではないけれど、明かされるべき啓示は聖書に書かれているのです。

しかしモーセは、[わたし【モーセ】があなた【イスラエル】の前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨]んだあとで、と言葉を続けています。祝福がイスラエルに臨むだけでなく、呪い、つまり契約に違反しヤハウェに背を向けた報いもイスラエルに実現した場合には、ということです。
この40年間ヤハウェにさからい続けるイスラエルを見てきたモーセには予感があったのか、それともイスラエルが呪いを受ける未来をヤハウェから示されていたのか。(*1)

ではその祝福と呪いがイスラエルに臨んだあと、どうなるのでしょう。

呪いを受けたイスラエルは、約束の地から追い払われ、諸外国に離散して生き延びていくことになります。
しかし諸国に離散しても、啓示された律法を思い起こして、神であるヤハウェのもとに立ち帰り、心を尽くし魂を尽くしてヤハウェの声に聞き従うなら[あなたの神、主【ヤハウェ】はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主【ヤハウェ】が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。]と、モーセをとおして神ヤハウェは約束したのです。地の果てからでもヤハウェはイスラエルを集め、連れ戻し、先祖のものだった約束の地に再び導き入れてそこを得させ、先祖の時代よりも人口を増やすというのです。
ひとたび国を失って散らされた民族が、再び国を建てるなどということは、人間業ではとても容易なことではありません。他国に植民地化され征服されているなら、独立を取り戻すこともできるかもしれませんが、国が滅ぼされ国民が強制移住によって連れ去られたような場合には、いったいどうやったら「自分たちの国」を再建できるのでしょう。
しかし、人間には難しくとも[ヤハウェが…再び集めてくださる]という確約が与えられたのでした。

そのための条件はただひとつ、主なる神ヤハウェを愛することです。キリストは、すべての戒律の中でどれが最重要かという問いに[心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。]と答えています。(*2)
いろいろと、窮屈そうにさえ見える戒律が聖書にありますが、結局は神を愛すること。愛とは相手の望むことや喜ぶことを考え行うことだとするなら、すべての戒律は「神を愛せ」に尽きるわけです。

しかし。
「愛しなさい」といわれて愛したからって、それは本当に愛なのでしょうか。愛というのは、命じられてそうするものではないですよね。
十戒に「父と母とを敬え」とありますが、言ってしまえば「親を敬う気持ちはないが、敬うべきだというならそうしよう」ということはできるかもしれません。敬っているかどうかは態度で量られるからです。実際、キリストの時代には、宗教指導者たちは「このようにしたら父母を敬っていることになる」という基準を作っていたようです。(*3)
しかしこれが「父と母とを愛せ」だったら、「気にいらないけど、愛すべきだから愛しましょう」ということはできません「気に入らない」という時点で、愛していない。愛しているなら「気に入らない」という状態ではないわけです。(本当は「敬う」も態度ではなく、心に敬意を持っているかの問題で、それを形骸化させている宗教指導者たちをキリストは痛烈に攻撃しました)

実は筆者は、この点をうまく説明することができません。それで筆者の場合について書くにとどめますが、筆者の場合は、「神が私を愛している」(*4)ということを知って、その愛に応えたいと思いました。たとえるなら「自分は親にどれだけ愛されていたことだろう。自分も親を心から大事にしよう」というような気持ちです。

話しを申命記に戻しますが、実は神ヤハウェを愛するというのは難しいことではないようです。というのは、「ヤハウェ自身が、あなたがヤハウェを愛し戒律を守ることができるようにしてくださる」とモーセは言っているのです。

あなたの神、主【ヤハウェ】はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主【ヤハウェ】を愛して命を得ることができるようにしてくださる。…あなたは立ち帰って主【ヤハウェ】の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。あなたの神、主【ヤハウェ】は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主【ヤハウェ】はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。あなたが、あなたの神、主【ヤハウェ】の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主【ヤハウェ】に立ち帰るからである。

無理を言ってるわけではない(30章11~20)

これまでモーセが民に伝えてきた「ヤハウェのいましめ」は、難しすぎるものでもなく、現実からかけ離れたものでもない、とモーセは民に教えさとします。さすがに「簡単だ」とは言っていませんが。
また、人の手が届かない天の高みや海のかなたにあるわけでもない、とも言っています。法律の専門家にしかわからないような、格調高いんだか無意味に難解なんだかわからないようなものではなく、[御言葉【みことば】はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にある]と言うのです。そして[だから、それを行うことができる。]と。

キリストの時代までに律法学者たちは戒律に細かく補足を足していき、ついには普通に生活しながらではとても遵守できないような戒律にしてしまいました。それは悪気があったわけではなくて、熱心に「どうしたら戒律を守れるのか」を考えた結果だったのですが。たとえば「安息日に働いてはならない」といういましめを守るために「そもそも『働く』とはどういうことなのか」を考えたのです。ところがその結果、病気やケガの治療まで禁じられるようになってしまったのです。まじめさは大事だけど、度が過ぎると…という気がします。
興味深いことに、似たようなことが現代の教会にもあります。教会には教理についての問答集や神学書などの受け継がれてきたものがあります。言ってみれば先輩が書きためたノートを後輩に送ってくれたようなものです。一人で聖書に取り組むには時間的能力的その他さまざまな限界がありますが、昔の人たちが聖書に取り組んだ成果によって後代の人たちは、たとえば先輩たちが一からはじめたことを二くらいから始められるわけです。ところがいつのまにかそのノートにはものすごい権威が与えられて、「信じるだけで救われる」はずが「信じて、それからこの教理問答集とこの神学書とこの信仰告白文とこの誓約文とそれから、…」なんてことに。これではとても、キリストが招いたような「幼な子」は天国に行けなさそうです。

しかしモーセの言うことは単純明快です。[見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。]ただこれだけです。
こう言われれば誰だって「命と幸い」を選ぶと思うでしょう。けれど人間というのは、意識せずに、あるいは時に意識して「死と災い」とわかっていることに手を出してみたくなるもの。それでモーセは「あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主【ヤハウェ】を愛し、御声を聞き、主【ヤハウェ】につき従いなさい。」と勧告しています。


*1 イスラエルが不信仰の結果ヤハウェの裁きを受けることが「決定済みの運命」だったというわけではありません。
ヤハウェは罪に対しては断固とした態度を取りますが、人が悔い改めるなら、裁きを撤回する神です。旧約聖書のヨナ書には、異邦人の町ニネベを一度は滅ぼそうとしたヤハウェが、ニネベ人の悔い改めを見て[どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。]と裁きを撤回したことが記録されています。

*2 マルコ福音書12章28~12章34

*3 マルコ福音書7章11~12

*4 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子【キリスト】をお遣わしになりました。ここに愛があります。(ヨハネの第一の手紙4章10。そのほか、同書4章16、4章19参照)

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#140
作成:2004年9月20日

布忠.com