申命記 第9回

menu

人を殺した者は、必ず殺されなければなりません。キリストによって「ゆるしつくせ」という法があたえられる以前の旧約時代は被害の範囲内で復讐が許される「目には目を」の同害復讐法でしたし、また神の似姿として創造された人間を殺すことは神を冒涜することでもあるのです。
しかし科学的な捜査が開発された現代でさえ、かならず犯人がつかまるわけではありません。まして数千年の昔、犯人が誰だかわからなかった場合は?

この場合、遺体発見現場から一番近い町があがなうこととされました。その町で、労役に使われたことのない雌牛が選ばれて犯人の代わりに殺されるのです。
これでは犯人自身は逃げおおせて罪を問われない?天網恢恢疎にして漏らさずと言いますが、全知全能のヤハウェの目を逃れることは人間には不可能です。人の世の司法からは逃れたようにみえる犯人はヤハウェのさばきにゆだねて、とにかく[罪なき者の血を流した罪]がイスラエルのうちにとどまらないようにするというわけです。

捕虜の女性との結婚(21章10-14)

イスラエルが戦争で敵を捕虜にして、[その中に美しい女性がいて、心引かれ、妻にしよう]と思った場合。

まず[彼女は髪を下ろし、つめを切り、捕虜の衣服を脱いで]から、そのイスラエル人男性の家に入ります。レビ記14章8の規定(*1)から考えると、これは(捕虜の)異邦人が女性イスラエルの土地に入るのにふさわしいように清めるということでしょう。

そののち、彼女の両親のために1ヶ月を服喪の期間とした与えた後で、正式な結婚によって結ばれなければなりません。これによって彼女は捕虜ではなく、イスラエルの民の妻になったのですから、あとで気に入らなくなったからといって「この女は戦争捕虜であるから奴隷として売る」などということはできません。

つまり、女性捕虜に対する性的虐待を許さないという規定です。

ある人に二人の妻がいたとして、二人を公平に愛するというのは、人間の愛では不可能でしょう。一方をより愛し、それに比べれば他方への愛はどうしても薄くなるものです。そして日本の時代劇のお家騒動でも同じですが、より愛した方の妻が産んだ子を跡取りにしたくなるのも自然な情でしょう。

ですが、うとましい方の妻が長男を産み、愛しい方の妻があとから子を産んだ場合でも、家督を継ぐのはあくまでも長男であると定められました。日本では子宝は授かりものといいますが、創造者から授かった長男は、夫がどちらの妻を愛しているかとは関係なく、その家に与えられた祝福を継承する者なのです。

聖書には、たとえばヤコブが兄エサウから相続権を奪ったことなど(*2)、弟が兄を差し置いて家を継いだケースが記録がいくつかあります。法としては長子権が絶対で、ヤハウェが介入したときに限って、弟が家督を継いでも祝福されるのです。

反抗する息子(21章18-21)

[わがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、いましめても聞き従わない]場合、その最終手段として、両親は町の長老に息子を突き出して[わたしたちのこの息子はわがままで、反抗し、わたしたちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです]と訴えるなら、長老の許可の元で石投げの刑となります。町の住民みんなで、石を投げつけて殺すのです。

[全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう]とあるので、抑止力としての法なのでしょう。このおきてが適用された記録は聖書にはないようです。
なんか、唖然とするような極端な法です。でも、「子供の人権の尊重」を「叱るな、我慢させるな、不自由させるな」と勘違いして野放図に育てられた少年たちによる凶悪犯罪の数々を思うと、何の抑止力もないというのも問題ではないかというのが筆者の正直な感想です。
(当然、まず親の責任が問われるべきでしょう。これは親の手におえなくなった場合という話です)

木にかけられた死体(21章22-23)

誰かが死刑に処されて、遺体を木にかけてさらし者にした場合、その日のうちに下ろして埋葬しなければならないとされています。死刑にされるほどの罪を犯して木にかけられた者は神に呪われた者であり、それを放置しておくことはヤハウェが与えた土地をけがすことだからです。

神キリストは、人間の罪をあがなう生贄として殺されなければならなかったのですが、それがどうして十字架刑だったのかの理由がここにあります。罪のゆえにヤハウェから呪われる人間の、その呪いをキリストが代わって引き受けるためだったのです。(*3)

創造されたままに(22章5)

突然ですが、ダナ・インターナショナルという歌手をご存知でしょうか。ABBAやセリーヌ・ディオンがブレイクしたユーロヴィジョン・ソング・コンテストで、1998年に優勝したイスラエルの人気歌手で、来日したこともあるそうです。実力よりも、元男性だということで野次馬的な話題が集まったようでしたが、一国を代表してユーロヴィジョンに出場し、しかも優勝するというのは実力がなければできないことです。

ところがイスラエルでは、大論争を引き起こしました。[女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない]という戒律があるのに、性転換とは、という論争です。
イスラエルには「女性を軍に入れるな」という根強い声もあります。女性兵士が男性兵士と同じ服装をするのが戒律違反だから、と。今も毎日のように、ガザ地区からロケット弾を打ち込まれ続ける、国防が国民全体の日常的なテーマである国で、兵力を確保することと戒律を守ることのどちらが大事かという議論が真剣になされている国なのです。
そんな社会で、ましてや、神の民たるイスラエルの男が性転換なんて、ユダヤ教徒でも敬虔な人にとっては耐えられないことなのでしょう。

最近の人権の考え方では「男らしく」とか「女らしく」というのも差別語/不快語といわれるようですが、聖書は人間が「男と女に創造された」(*4)という考え方です。創造者が、男を男として、女を女としてつくったのだから、男が女のようにしたり、女が男のようにしたりすることを[あなたの神、主【ヤハウェ】はいとわれる。]のです。(これを、聖書が性差別を認めているという根拠にするのは誤りです。ヤハウェは男を創造してから女を創造しましたが、もし男が女よりすぐれているなら、全能者はわざわざ劣ったものを後から創造するよりは、男だけを単性生殖可能なように創造したことでしょう)

では、「性同一性障害の治療としての性転換」はどう考えたらいいのでしょうか。
あくまでも筆者の個人的見解ですが、新約聖書の言葉[「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。](*5)と、[何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。](*6)が基準だと思います。人間に与えられた医療技術によって、神に愛されている人間の一人を苦しみから救うことに、問題があるだろうかと思うのです。

責任の所在(22章8)

家を建てた場合、屋根には欄干をつけなければならないと定められています。

一般的にイスラエルの民家は、屋上への階段は家の外壁に作られていて、上ろうと思えば誰でも上れるのです(*7)。
もし他人が勝手に家の屋上に上がって、それで転落して死んだ場合、欄干がつけられていれば、転落した者は意図的にそれを乗り越えたわけですから、死の責任は自身にあります。欄干がなかった場合は、危険な構造のまま放置した責任を問われるということになるのです。

衣服の房(22章12)

[身にまとう衣服の四隅には房【ふさ】を付けねばならない]と定められました。祭司の祭服については細かい規定がありますが、それ以外の一般の人は、四角い大きな布を身に巻きつける服装だったようです。その布の四隅に房を縫い付けるのです。

なぜそんなものをつけるのか。民数記15章に、その房を見てヤハウェの命令を思い出すためだと解説されています。
たとえば結婚指輪を見ると、自分に愛する妻あるいは夫がいることを思い出させて、順風なときに感謝の思いを与えたり、喧嘩したときに仲直りしなきゃという気にさせてくれたり、あるいは裏切ろうとしたときに思いとどまらせたりしてくれるのです。ちっぽけな金属の輪っかにすぎないというのに。
パウロは神と人の関係をよく結婚にたとえているし、旧約の預言者たちはヤハウェを差し置いてほかの神々に行くことを姦淫、今ふうに言えば不倫だと戒めています。とするとこの房は、結婚指輪のようなものでしょうか。


*1 レビ記14章8に、重い皮膚病だった者が完治して社会復帰する際は[清めの儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗]ったのちに、宿営に入れるという規定がある。

*2 → 創世記27章

*3 ガラテヤの信徒への手紙3章13

*4 創世記1章27

*5 コリントの信徒への手紙一6章12

*6 コリントの信徒への手紙一10章31

*7 マルコ福音書2章で、中風患者をイエスのもとに連れてきた友人たちが勝手に他人の家の屋根に上っている。もっとも、彼らが他人の家の屋根に勝手に穴をあけたのは当時でもやりすぎだろう。

前へ 上へ 次へ

#134
作成:2003年10月31日
更新:2013年10月16日

布忠.com