申命記 第7回

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カナン定住後の規定その2(14章22節~17章7節)

収穫の十分の一に関する規定(14章22-29)

前号と一部かぶりますが14章22~29は、収入の十分の一をヤハウェにささげる規定です。

畑に種をまいて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。

とあります。「必ず」とあるとおりこれは義務ですが、献納物は「進んで心からささげる」べきものでもあるのです(*1)。

毎年奉納する「十分の一」とは別に、三年目ごとにまた「十分の一」を納めることとされています。この第二の「十分の一」は、神殿にもって行ってささげるのではなく町の蔵にたくわえられ、町の中に住むレビ族を養うために用いられます。祭司民族であるレビ族は、神殿でヤハウェに仕えるだけでなく、各部族の土地に別れ住んでそこでも祭司として働くのです。
たくわえられたものはまた、孤児や寡婦や外国人寄留者の保護、つまり福祉の財源ともなります。

民はヤハウェにささげ、それによってヤハウェが人々を養うのです。
これは現代のキリスト教の牧師も同様です。クリスチャンはヤハウェに献金をささげ、そのささげられたものによってヤハウェが牧師を養うのです。
ある牧師が、ステーキのチェーン店の割引券をもらったというので家族とでかけた。それを教会の人が見かけて「俺が生活を切り詰めてささげた献金で牧師が贅沢している」と怒った。なんて話しがあります。聞いた話しなので実話かどうかはわかりませんが、「神にささげる」ということがわかっていないと、このように怒ってしまうことにもなるのでしょう。

収入の一割というのはきびしいと思われるかもしれませんが、聖書にはこうも書かれています。(*2)

十分の一の献げ物をすべて倉に運び
わたしの家に食物があるようにせよ。
これによって、わたしを試してみよと
万軍の主【ヤハウェ】は言われる。
必ず、わたしはあなたたちのために
天の窓を開き
祝福を限りなく注ぐであろう。

なお、キリスト教の教会では、たとえば「礼拝堂を建てるために、今まで以上にがんばってささげよう」といったことはあっても、信者に有り金すべて出させたり、借金までさせたり、信者の親の財産や家まで狙ったりするようなことはありません。
キリスト教を装いながらこういったことを強要するような宗教は、単なる営利団体であって、そこに救いはありません。

負債の免除(15章1-11)

隣人への「貸し」は、7年目ごとに免除するようにという規定です。貸してから7年目ではなく、7年ごとに定められた年には免除しなければなりません。
つまり6年目に貸したら翌年には免除しなくてはならないのです。しかもモーセは[七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主【ヤハウェ】に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。]と釘をさしています。

これでは貸すほうが圧倒的に不利です。
しかし、ヤハウェがイスラエルに与える土地でこの命令を守るなら、ヤハウェは必ずイスラエルを祝福するのでイスラエルのうちに貧しい者はいなくなる、とモーセは断言しました。
国の中に貧しい者ばかりであるのと、国民の生活水準がある程度高いのとでは、どちらか資本家にとって有利でしょうか。経済学にはド素人の筆者ですが、後者のほうが経済が活発化して資本家にも有利なのではないでしょうか。
とすると、貧しい同胞に貸すのは、マーケットに投資することになるのでしょう。

奴隷の解放(15章12-18)

同じヘブライ人(イスラエル人)である同胞が奴隷として売られてきた場合、7年目には自由の身にしなければならないとされました。しかも解放する時には、手ぶらで去らせてはならないのです。

あなたの羊の群れと麦打ち場と酒ぶねから惜しみなく贈り物を与えなさい。それはあなたの神、主【ヤハウェ】が祝福されたものだから、彼に与えなさい。

ただし、奴隷自身が主人の家を離れたくないのであれば、それも自由です。この場合、主人が[きりを取って、彼の耳を戸に刺し通]せば、その人はいつまでも奴隷となるとされました。おそらく「この家で命じられることを聞く」という象徴でしょう。
それにしても、奴隷が「奴隷のままでいたい」などと思うものでしょうか?実は聖書で定められているイスラエルの奴隷制度は、世界史で習う白人至上主義的な奴隷制度とはかなりちがうのです。奴隷精度については、以下のページをどうぞ。

奴隷について

三大祝日(16章1-17)

除酵祭【じょこうさい:酵母を除く祭り】、七週祭、仮庵祭についての規定です。
それぞれについては出エジプト記23章を参照ください。

これらの祭りは、聖書で何度も命じられている重要なものですが、ここでは特に、祭りを祝う場所について強調されています。

過越のいけにえを屠【ほふ】ることができるのは、あなたの神、主が与えられる町のうちのどこででもよいのではなく、ただ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない。

こうしてあなたは、あなたの神、主の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。

七日間、主の選ばれる場所であなたの神、主のために祭りを行いなさい。

祭りを、自分の好きなところで祝うというのは、人間が神を呼びつけることです。イスラエルの祭りはそうではなく、人が神の前に出て行って祭りを祝うのです。

正しい裁判(16章18-20)

正しい裁判を行うことの規定で、特にワイロで裁きを曲げることが禁止されています。16章20の[ただ正しいことのみを追求しなさい]は、新改訳では[正義を、ただ正義を追い求めなければならない]と、「正義」が非常に強調されています。

ヤハウェの祭壇のそばに(カナン人が礼拝する)アシェラ像や木の柱や石柱を立てること、日月星辰を崇拝することが、重ねて禁じられました。
この文脈の中に、傷のある家畜をいけにえとしてささげることの禁止が入っていますが、カナン人は欠陥のあるものを平気でいけにえにしていたということでしょうか。よくわかりません。
いずれにせよ、ヤハウェ礼拝に偶像礼拝を持ちこむことは、ヤハウェから離れることであり、前号でも扱ったとおりこれはイスラエル社会に対するテロも同然なのです。

ただし、重大なことであるからこそ、容疑をかけられた者の裁判に当たっては、常にもまして厳正であることが求められました。
もし容疑が確実なら、容疑者は死刑に書せられなければなりませんが、そのためには複数の証言が必要であると規定されています。
さらに、死刑(石を投げつけて殺す)の執行に当たっては、まず証人が手をくださなければならないとされています。もしウソの証言により死刑が執行されるなら、その証言者は偽証の罪(十戒の第九戒の違反)で裁判を曲げた上に、殺人の罪(十戒の第六戒の違反)も負うことになります。


*1 イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。(出エジプト記25章2)

*2 マラキ書3章10

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#132
作成:2003年8月13日
更新:2004年1月12日

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