申命記 第4回

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第2説教の序(4章44節~5章5節)

[イスラエルの人々がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げた定めとおきてと法は次のとおりである。]
さあ、やっと本題です。モーセは全イスラエルを呼び集めて[イスラエルよ、聞け。]と語り始めました。

我々の神ヤハウェは、シナイ山で我々と契約を結ばれた。当時の世代と結ばれたわけではなく、今ここに生きている我々すべて(そして子々孫々まで)と結ばれたのだ。
これは私モーセが勝手につくった法律ではない、あのときヤハウェの臨在【りんざい】(神ヤハウェが確かにその場に臨んで在ること)をイスラエルの誰もが目の当たりにしている場で提示されたものを、新しい世代にもう一度告げるのだ、とモーセは言っているのです。

十戒

シナイ山のときと同じく、最初に示されたのは十戒でした(*1)。[わたしは主【ヤハウェ】、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。]という前文に続いて、以下の十戒(直訳すれば「10のことば」)が示されています。

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

あなたはいかなる像も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。

あなたの父母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

隣人に関して偽証してはならない。

あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない。

(抜粋)

出エジプト記のところでも扱いましたので(*1)詳しくは省略して、いくつかについて簡単に説明します。

第1条に関連して「一神教は他宗教に対して不寛容だ」ということを言う人もいますが、それは夫(あるいは妻)のある身で他の異性を配偶者とするようなもの。寛容なのではなく、単に節度がないだけです。

第2条では「いかなる像も」を、写真や絵、映画やTVもいけない、と考える人もいます。でもこの条項は礼拝の対象としてそれらをつくることの禁止である、と考えていいのではと思います。人を神への思いから離そうとするものが禁じられていると考えれば、ポルノや暴力などの映像はこれに該当するでしょう。しかし神が創造した肉体の美しさを表現するものなら、裸婦像なども芸術のうちに入ると思います。(←筆者の個人的見解です)
この条項では、ヤハウェをこばむ者にはその罪を子孫に三代、四代までも問うが、ヤハウェを愛しこの条項を守る者には幾千代までも報いがあると付記されています。

第3条は、たとえばののしる言葉として「Jesus!」とか「My God!」と口にするのが、これにあてはまるでしょう。
某国大統領は、面会に来た牧師を追い払いながら、国民には「神のご加護を」と演説していましたが、これも「みだりに」じゃないかなぁと筆者は思います。

第4条は、十戒の中でももっとも長文の条項で、そのことからもこれが重要であると推測できます。
安息日は権利ではなく義務です。ただの休日ではなく、この日を聖なる日として扱わなければなりません。バリバリ稼いでると「1日休めば、その分もうけが減る」と思うかもしれません。やっとその日を生きている者は「1日働かなければ、1日分の生活費が減る」と思うかもしれません。それを超えて安息日を守るとは、神ヤハウェを第一とする生活をするということなの です。

第5条も、これを守った場合の報いがあります。これを守れば[あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る]という約束です。

この十戒をヤハウェは[力強い声をもってこれらの言葉を集まったあなたたちすべてに向かって告げ]たと、モーセは言っています。誰かが自分で書いて「これが神のおきてだ」と言ったのではない、成人男性だけでも60万人、全体では200万人とも250万人とも言われるイスラエル自身が、これが神ヤハウェのおきてであることの証人なのです。

勧告(6章)

6章は、条約にたとえるなら、批准を求める演説にあたるでしょう。
これからヨルダン川を渡ってカナンに住みつこうというイスラエルに、これはあなたたちが渡って行って得る土地で守るべき法であり、これを忠実に行うなら幸いを得て、約束の地でおおいに繁栄する、とモーセは訴えています。しかもそれを保証するのは全能なる者、約束を破ることができない者、神ヤハウェなのです。
その保証のゆえに、モーセは力強く訴えていきます。

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

のちにキリストもこれを引用して、もっとも重要なおきてであるとしています(*2)。律法のかなめであり、いましめの土台なのです。

モーセはまた、これらを子供たちに繰り返し教え、家でも外でも寝ても覚めても語り聞かせなさいと言っています。しつけと教育の根本を神に置けと言っているのです。
でも子供というのは、勉強を押し付けられれば「こんなこと、何の意味があるんだよ」と思うものです(よね?少なくとも筆者はそうでした)。しかしモーセは、子供からそう尋ねられたときの答えまで用意していました。子供が尋ねるなら、こう答えればいいと言っています。

「我々はエジプトで奴隷だったが、ヤハウェは我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、この約束の地を我々に与えられた。そのヤハウェが、これらのおきてをすべて行うように命じ、ヤハウェに畏敬の念を持つようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。
だから、我々が命じられたとおり、このいましめをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」

実際にイスラエルの人々は、このとおりに子供たちを教育したようです。貧富に関係なくこどもたちはラビ(教師)から聖書を学び、それを暗記していったそうです。
それを「洗脳だ」という人もいるかもしれません。しかし、親が子に「知らない人からお菓子をもらってホイホイついて行ってはだめですよ。帰ってきたらおやつがありますからね」と言うのが洗脳でしょうか。「どんなに魅力的に見えても、ほかの神や、ほかの価値に行ってはいけませんよ。結びついているべきところにとどまるなら、すばらしい報いがありますからね」というのはまったく同じことです。

ところで、「我々は報いを受ける」の「報い」とは何でしょう。
「あなたの神ヤハウェが先祖とあなたに誓った約束の地にあなたを導き入れ、自分でつくったわけではない大きな美しい町、あらゆる財産で満ちた家、貯水池、ぶどう畑とオリーブ畑を手に入れ、食べて満足するとき、[あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。]とモーセは注意しています。
どんなにいいことでも、それがいつものことになると、それが当たり前になってしまいます。たとえば日本で「今日もご飯を食べられて本当によかった」などと思う人は、日本人全体から見たらごくわずかではないでしょうか。それよりも「たまにはもっと豪勢な食事がしたいものだ」と思う人のほうが多いのではないかと思います(実際、筆者は後者です)。
しかし日常もまた神からの報いなのだ、とモーセは言っているのです。ヤハウェは、人が「あの世」に行ってから関係が出てくる神ではありません。この世で生きている時から、恵みを与える神なのです。


*1 出エジプト記10章。→当サイト出エジプト記第20回

*2 マルコ福音書12章28-34

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#129
作成:2003年4月25日

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