民数記 第20回

menu

イスラエル分裂の危機?(32章)

ヨルダン川の東岸にいたイスラエルが、いよいよ川を渡ってカナンに攻めこもうかというときのことです。(といっても実際に川を渡るのは、次の次の旧約聖書第6巻・ヨシュア記になります)

12部族のうち、ルベン族とガド族が、モーセと大祭司エルアザルたちのところにきて、こう言ったのです。

[主【ヤハウェ】がイスラエルの共同体の前で滅ぼしてくださった(ヨルダン川東岸の)土地は、家畜に適した土地であり、しもべどもは家畜を持っております。もし、わたしたちがあなたの恵みを得ますなら、この土地を所有地として、しもべどもにお与えください。わたしたちにヨルダン川を渡らせないでください。]

イスラエルがこれから戦おうというときに、ルベンとガドは自分たちだけ戦いに加わらず、ヤハウェが導くゴールへ進もうともしないのか?

いつものモーセなら激昂するところですが、今回はそうせず、それはとんでもないことだと懇々と説得しようとします。
「あなたがただけとどまれば、戦おうとする他の人たちの心が折れるではないか。そもそも40年前、ヤハウェが導く地へ入ろうとしなかったため、当時大人だったものはカナンに入れなくなりその世代が滅びるまで荒野をさまようことになったのではなかったか。
そんな父の世代と同じことを、あなたたちはするというのか。そんなことをすれば、あなたたちがこの民全体を滅ぼすことになるだろう。40年前、あの偵察隊の10人によって、ヤハウェに対する反抗が起きたように。」

ルベンとガドはあわてて、いやそういうつもりではないのだと訴えました。
「ここはすばらしい土地だから、ここに住むための拠点(家畜のための囲いや、子供や女たちのための城壁のある町)を築きたい。ただし自分たちは、ヤハウェの民、ヤハウェの兵士として、ヤハウェがイスラエルをもちいてカナンに裁きを下すこの戦で先頭に立って戦い、終わるまで家には決して戻りません。」

モーセは、そういう覚悟があるならと彼らの求めを承認しました。

カナン分割の予告(33章~34章)

[モーセとアロンに導かれて、部隊ごとに、エジプトの国を出たイスラエルの人々]の、ここまでの旅程が記録されています。
ヤハウェの命令によってモーセが記録していたもので、すべてのエジプト人の目の前を意気揚々と出てきたところから始まって、どこで宿営したかを中心に、簡単なトピック(海の中を通ったとか、飲む水がなかったとか、アロンがここで死んだなど)が添えられて、現在地である[エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野]に宿営するまでが書かれています。

この宿営地でヤハウェはモーセに、民にこう告げよと言っています。この旅程の記録はそのための前フリで、つまり「今までこのように進んできたが、いよいよ約束の地にイスラエルを入れるに当たって、これから言うことをおぼえておきなさい」というかたちになっているのです。

その第一は、[あなたたちの前から、その土地の住民をすべて追い払い、すべての石像と鋳像を粉砕し、異教の祭壇をことごとく破壊しなさい。]というものでした。

イスラエルがカナンの諸部族を滅ぼし、追い出すのは、神ヤハウェに裁かれなければならないほどに彼らの罪が満ちたからなのです。その罪の最たるものでありその罪の象徴であるのが偶像崇拝、つまり、創造者であるヤハウェに背を向け、自分たち人間の手でつくったものを自分たちの神とすることです。

太陽や山などを神あつかいするのは、ある意味ごく自然なことかもと思います。聖書には、ヤハウェが人間に宗教性を与えたこと(*1)、自然の中に創造者の力が現れていること(*2)が書かれているからです。巨木や巨石に注連縄(しめなわ)を張って「神がおりるところだ」とするのは、意外にも聖書の考え方にとても近いものなのです。
しかし、人の手でつくったものは、たとえ作品としてすばらしいものでも、人以上になることもまして神になることもありません。仏像でも、鏡や勾玉や刀剣でも同じです。それら人の手で作ったものが、人を超えるものになることはないというのが聖書の考え方なのです(*3)。

話しを戻すと、神ヤハウェの命によって罪深きカナンを征討するイスラエルには、偶像礼拝を断つことが使命とされたのです。
もしカナン人を追い出さず、イスラエルが征服した土地の中に住まわせておくなら、いずれそれがイスラエルを悩ますことになるだろうと予告されています。つい先ごろにミディアンの女たちによって偶像礼拝に傾いたように。

第二に、ヤハウェはカナンの土地の分配方法について指示しました。
分配の方法はクジ引きでおこなうとされていますが、運にまかせろということではありません。神ヤハウェが定めたことがクジで示されるという前提があるのです(*4)。
分配される土地は、東は塩の海(死海)から西は大海(地中海)とされています。さらに死海とヨルダン川の東側に、ルベン族ガド族マナセ半部族が住むことになるのです。

まだヨルダン川の西に半歩も入っていないのですが、これは「もし運良くその土地を手に入れたら」という話しではありません。もうその土地はヤハウェのものとして名義書き換えが済んでいて、それをイスラエルの各部族に分配するということなのです。

おまけ

31章に記録された旅程は、ここまで読んできた出エジプト記から民数記に書かれた旅程と、必ずしも一致していません。では聖書には誤りがあるのか?聖書が誤りがないとすると、これはどういうことなのか。

いくつか理由が想像できます。たとえば、苦い水しかなかった地をイスラエルはマラ(苦い)と名づけましたが、この地にはそれ以前から知られた名前もあったはずですし、逆に苦い水のある地を「ここもマラだ」と言ったことも考えられます。このように、ある土地が複数の呼ばれ方をしたり、複数の土地が同じ名前で呼ばれたりすることがあるのです。(聖書の地名が現在のどこなのかわかっていないことが、読み手をさらに混乱させます)


*1 人間にそなわった宗教性
コヘレトの言葉(伝道の書)3章11に[(神は)永遠を思う心を人に与えられる。]とあるのは、唯一の永遠な存在である神を求める心のことだと考えられます。

*2 自然の中に神の力が現れている
ローマの信徒への手紙1章20には[世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。]とあります。私たちが初日の出や霊峰富士山に特別な思いを持つのは、太陽や山を創造したヤハウェの力と神性がそこに現れているからなのです。

*3 人の手でつくったもの
ダニエル書5章23[金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々]
申命記4章28[人間の手のわざである、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない木や石の神々]
ヨハネ黙示録9章20[このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。]など。
*2とあわせて、それらに神が宿ると考えられる?使徒言行録17章24には[神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。]とあります。

*4 クジは運ではない
箴言16章33[くじは膝の上に投げるが ふさわしい定めはすべて主から与えられる。]

前へ 上へ 次へ

#124
作成:2003年2月27日

布忠.com