民数記 第18回

menu

カナン占領後のそなえ(28章~30章)

また律法です。
人口調査がおこなわれたことで兵力が把握され、次代の指導者としてヨシュアも指名されて、カナン占領のための体制がととのったことになります。人口調査はまた、カナン占領後の土地の分割の基礎データともなりました。40年間で文字通りに世代交代した新イスラエルです。
31章以降、ミディアン人との戦いを皮切りとして土地を手にしていくのですが、その前に、いよいよ約束の地に住みついていくにあたって、イスラエルの民が日常的にどのようにヤハウェとの関係をもっていくかの規定が示されています。

いけにえ

ヤハウェにささげるいけにえについては、すでに出エジプト記、レビ記、民数記でも述べられていますが、28~29章であらためて総括的かつ詳細に規定されています。穀物の奉献物や収穫にかかわる祝祭は、荒野を移動していた40年のあいだは無理だったから、いざ占領し入植するというこのタイミングで体系だてられているのでしょう。

「日ごとの献げ物」「安息日の献げ物」「毎月の一日(ついたち)の献げ物(太陰暦なので新月の日が一日になるため、別名(新月の祭り)なります」「過越(すぎこし)の祭り(第一月の14日)」などなど、祭り(礼拝)が列挙され、その時々に奉納する動物のいけにえや穀物の奉納物が規定されています。

これらは、累計されます。たとえばある月の一日が安息日の場合、一日の献げ物と安息日の献げ物と日ごとの献げ物を祭壇で燃やすのです。となると年間ではものすごい量になります。
これでは経済的にはかなりのロス?世の中には信者の財産を搾り取るような宗教もありますが、ヤハウェも同類なのか?

ヤハウェは、奉納物は惜しまずに喜んでささげなければならないと言っています。逆にいえば、これだけのものを惜しまずに喜んでささげられるほど、イスラエルを豊かたにするという保証だと言えると思います。ヤハウェはこう言っています。

十分の一の献げ物をすべて倉に運び
わたしの家に食物があるようにせよ。
これによって、わたしを試してみよと
万軍の主は言われる。
必ず、わたしはあなたたちのために
天の窓を開き
祝福を限りなく注ぐであろう。(マラキ書3章10節)

女性の願かけ

レビ記27章に、宗教的な義務からではなく、個人の自由意思でヤハウェに対して請願を立てる場合の規定があります(*1)。請願を立てるのは自由ですが、一度誓ったら必ず果たさなければなりません。

この30章では、未婚の女性が請願の誓いを立てても、父親がそのことを聞いた日のうちなら無効を宣言できること、請願の期間中の女性が結婚した場合あるいは既婚女性が請願を立てた場合でも、夫がそのことを聞いた日のうちなら無効を宣言できることが規定されています。
では女性は、信心さえ自分の意思で決定できないのでしょうか。自分がに誓いをたてたことが、夫や父とはいえ他人によって破棄されるとは。

たとえば、女性が結婚前にヤハウェに誓ったことが結婚生活に影響を及ぼすようなケースが考えられます。仮に未婚の女性が「私は過越の祭りの期間以外も、一年中、醗酵させたパンは口にしません」という誓いを立てたとしましょう(そういう例があるか知らないので、あくまで『たとえ』です)。
この女性が結婚した場合、請願が有効なら、夫も醗酵させたパンを断つか、夫婦が別々の食事を食べる(夫だけ醗酵させたパン)しかありません。前者では夫は自分の自由意思ではありませんから、この規定の趣旨に矛盾します。後者では「二人は一体となる」というヤハウェが定めた結婚の神秘(*2)に矛盾するでしょう。

となると、女性の場合は父親または夫によって誓願が破棄されるというのは、神ヤハウェの配慮というものかもしれません。
むしろ、男性の場合は誰によっても破棄されないこと、夫あるいは父は請願のことを聞いたその日のうちでなければ破棄できないのですが、あとになってそれを破棄する場合には、妻本人ではなく夫が罪ありとされること、なかなか男には厳しい条件かも。

新約聖書から見れば、また別の理由もあります。聖書は[妻たちよ…教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです][夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい]と言っています(*3)。つまり夫(父)は、家庭において神キリストの役目があるというのです。神の役である夫(父)だから、神に誓った請願を無効にできると考えられます。

注意!
上の新約聖書の言葉はしばしば「妻は夫に何をされても不平不満を言うべきではない」などと男性に都合のいいように解釈され、キリスト教国と呼ばれる国でも女性がドメスティックバイオレンスに苦しんだり、教会に助けを求めた女性が「夫に従えないのは神に従えないのと同じだ、苦しいのは信仰が弱いからだ」とかえって追い詰められたりすることもありました。
でも、「キリストが教会のために御自分をお与えになった」とは、キリストが十字架で生贄となったことを指します。夫には、安っぽいヒロイズムではなく真に「妻のために死ぬ」という姿勢が求められているのです。
結婚は人間ができるもっとも神聖なことのひとつですから軽々しく言いたくはありませんが、妻を苦しめるような夫=キリストが教会にしたように妻にできない夫には、教会がキリストに従うように妻を従わせる資格はありません。(などと言う資格が筆者にあるかというと、、、)

最近では、夫のことを主人と呼ぶことに抵抗のある方は(クリスチャンでも)多いかもしれません。
でも、これは筆者個人の考えですが、聖書によるなら、夫は主人であるべきだと私は考えます。ただしそれは、封建的な主従関係のように妻を扱ってよいということでは全くありません。真に主人であるためには、命を捨てるほどの重い責任が伴うのです。
十字架で苦痛と恥辱ののうちに命を捨てたキリストのように、妻のためにできますか?筆者は正直、今はとてもできないと思います。キリストの姿を目指して、夫として成長していきたいです。


*1 本誌バックナンバーレビ記第14回参照

*2 創世記2章24節「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」

*3 エフェソの信徒への手紙5章22~33

前へ 上へ 次へ

#122
作成:2003年1月11日

布忠.com