民数記 第3回

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内面の準備(5章)

烏合の衆とさえ言えるような、一群の人々でしかなかったイスラエルが、組織化され陣容も定められて、外見的には前進するための容易が整いました。そしてさらに、ヤハウェを中心とする"神の民"としての内面的な準備がととのえられます。

聖なる陣営

イスラエルの中に幕屋が建てられ、聖なる神ヤハウェがそこに住むということで、イスラエルの中にはどんな"けがれ"もあってはならないとされました。幕屋が聖域であるだけでなく、イスラエルそのものが聖域になるのです。
このため[重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者]などのレビ記の規定に抵触する人は[宿営の外に出しなさい]と命じられました。

と言っても追放刑ではありません。イスラエルという聖域の外にとどまり、祭司によって「きよくなった」と認定されれば民の中に戻ることができます。

民の中の信頼関係

レビ記で繰り返し、ヤハウェ自身が聖なる者であるように、イスラエルも聖なる者となれ、と命じられました。これは自分を聖としてたもつと同時に、隣人も聖なる者として対応するということです。たとえば、聖なる神ヤハウェに対して誠実さが求められるように、隣人に対しても誠実さが求められるということです。
人に対して罪を犯した場合の賠償もレビ記で規定されていました。ここではさらに補足して、(被害者本人が死亡していて)賠償を受ける親族もいない場合もチャラにはならず、ヤハウェが賠償の受取人になること、具体的には裁定を担当した祭司のものとなることが規定されました。

民の中における相互の誠実さということでは、もうひとつおもしろい(?)規定が記されています。「妻が身をけがしたのではないか、と夫が疑った場合」についてです。

姦通罪が明らかとなった場合は男女とも死刑です。聖であるべきイスラエルの宿営の中では、あってはならないことです。とはいえ、ヤハウェに誠実だったということでは見本のようなダビデ王でさえ、人妻と関係しそれを取りつくろうためにその夫を殺させたことが唯一最大のあやまちとして記録されているように、性的な罪というのは人間がもっともおちいりやすいものなのかもしれません。しかも大っぴらにやることじゃありませんから、全知全能のヤハウェにはばれていても、人の目には発覚しにくい。

このため、「妻が別の男と性的関係を持ったにも関わらず、露見せず捕らえられていないが、夫が疑いを持った場合。あるいは妻が身をけがしていないのに夫が疑った場合」について、規定されています。

夫は、"罪の判定のための奉納物"をたずさえて、祭司のところへ妻をつれていきます。祭司は妻に宣誓させた上で、"呪いをくだす苦い水"を飲ませる。もし妻が潔白なら害はないが、もし妻が身をけがしていたなら、この水を飲んだとたんに主【ヤハウェ】が腹を膨張させ腰をおとろえさせるので、民の中で呪われ続けることになる、というものです。

"呪いをくだす苦い水"とは、水に、幕屋の床のチリをまぜ、呪いの言葉を書いた巻物を入れたもので、よほど幕屋の床が不衛生だったのでもない限り無害なものでしょう。しかし聖域である幕屋は清潔にたもたれるよう努力されていたと思われます。つまりヤハウェが介入して有罪としない限り、ほとんど無罪になったはずです。日本書紀の"くがたち"(煮え立つ釜に手を入れて、ヤケドしたら有罪)が「疑わしきは罰する」だとすれば、民数記方式は「疑わしきは罰せず」となるでしょうか。イスラエルの中に"疑念を持ったまま"という関係のないように、シロクロつける方法として定められたのかもしれません。

ナジル人(6章1~21節)

レビ記の最後に「請願(願掛け)する場合」についての規定がありましたが、6章にはその特別な態様である"ナジル人"についての定めがあります。
ナジルとは「分離する」という言葉からきて、一定期間(終身の場合もある)俗界から分離されてヤハウェのものとなる請願をした人がナジル人と呼ばれます。
といっても修道院にこもるかのような、一般的な生活ではなくなるような制限はありません。普通に労働や家事をこなしながら、自分自身をヤハウェのものとして生活するのです。

具体的には、まず徹底的な禁酒です。ナジル人はぶどう酒はもちろんのこと、発酵させていないぶどう汁つまりグレープジュースから、ぶどうの実、干しぶどうも口にしてはいけません。祭司も幕屋でおつとめするときには禁酒が要求されましたが、それ以上のきびしさです。
第二に、期間中は髪を伸ばし続けなければなりません。これによって自分がヤハウェにささげられていることを示します。晴れて満願となったときに髪を剃り、これを奉納物とともに祭壇で燃やすのです。
第三に、親兄弟の死であっても、遺体に近づいてはならないという規定です。祭司でも近親者の葬儀には出席が許され、大祭司だけがすべての死体から遠ざかっていなければなりませんでしたので、ナジル人は大祭司なみのきよさが要求されているわけです。
このように、一般庶民が、大祭司クラスの聖なる状態に身をおいて、ヤハウェとともに生きるのがナジル人です。

しかし日常生活を送りながらでは、うっかりや不測の事態で請願を破ってしまうこともありえます。この場合にはきよめの手続きののちに、最初からやり直すこととされました。
たとえば、サムソンという豪傑は、敵軍に通じていた女にだまされて、髪を剃られてナジル人の請願が破れてしまいました。このためヤハウェから与えられてた剛力を失ってしまい、敵に捕らえられてしまいます。しかし髪が元のように伸びると剛力も戻って、請願が破られる以前に殺したよりも多くの敵を葬るのです。

新約聖書ではバプテスマのヨハネが終身のナジル人だったと思われます。パウロも期間限定のナジル人を経験しています。

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#107
更新:2002年12月28日

布忠.com