レビ記 第14回

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聖書の法則(26章)

ここまでヤハウェは[あなたたちは偶像を造ってはならない。彫像、石柱、あるいは石像を国内に建てて、それを拝んではならない][あなたたちはわたしの安息の日を守り、わたしの聖所を敬いなさい]という命令を繰り返してきましたが、なぜそうしなければならないのかについては[わたしはあなたたちの神、主【ヤハウェ】だからである。]としか書いてありません。

「そんなの、答えになっていないじゃないか」という疑問に答えるかのように、26章では

が示されています。

もしヤハウェに従った場合

時季に応じて雨を与え、それによって大地は作物をみのらせ、木も実をみのらせる。穀物の収穫が終わればぶどうの収穫、そして種まきと続き、飽き足りるほどの食物があって平穏に暮らせる。(天地の主ヤハウェには、そのようにする力がある)
国土から猛獣はいなくなる。
戦う時は追撃するのみで、国土が戦火で荒廃することはない。5人で100人の敵を、100人で1万の敵を打ち破る。(ヤハウェを信仰する者の戦いはヤハウェみずから敵と戦われる)
子孫は繁栄し、その子孫もまたヤハウェと契約を結ぶ好循環。ヤハウェ自身がともに住み、あなたの神となり、あなたはヤハウェの民になる。

もしヤハウェに従わない場合

恐怖とあらゆる病気を与える。種をまいても収穫は敵が奪う。神であるヤハウェ自身があなたと戦うので、あなたたちは敵に打ち破られ踏みにじられる。

それでもヤハウェの言葉に帰らないなら、七倍の罰。
天を鉄のようにするので(木ならまだ湿り気もあるかも)一滴の雨もふらせない。地も赤銅のようして、どんなに力を誇って努力むなしく、畑も木にも実りはない。

それでも反抗するなら、さらに七倍の災いを与える。
野獣が放たれ、子供や家畜を殺す。旅もできずに街道が荒れ果てる。

それでもヤハウェのこらしめがわからないなら、さらに七倍の災厄。
戦争を引き起こし、町に逃げても疫病が流行り、ついに敵の手に落ちる。10人の女がパンを焼くのに1つのかまどで足りるほど、粉もなく燃料もなく各世帯は死人で人数が減る。

それでも反抗するなら、さらに七倍のこらしめ。
飢饉のためついに我が子の肉を食べるようになる。そのとき偶像を頼りにしても、ヤハウェが偶像やそのための聖所・聖域を破壊する。他国の軍が占領した時には、その荒れように驚くだろう。そしてあなたたちを捕虜にして引いていき、町は廃墟と化す。生き残った者は、捕虜として異国でおびえながら生き、やせ衰えていく。

それでも...

ヤハウェが愛の神だというなら、なぜそこまでひどいことができるのか?ヤハウェは愛そのものであると同時に、正義そのものだからです。"そむき"を放置することはできないのです。正義のない愛はただの甘やかしです。
むしろ、「それでもまだ反抗するなら」「それでもまだ反抗するなら」という繰り返しの中に、"まだわからないのか"と涙を流しながら我が子をこらしめる親のような激しい愛情が読み取れないでしょうか。

陶芸家に、願う通りに焼きあがらなかった作品を粉々に砕く権利があるように、創造者にも、願う通りに生きない作品を滅ぼす権利があります。もしヤハウェがそうしたとしても、保護義務違反だなどと訴える権利は誰にもないのです。
唯一、創造者の正義を止めることができるのは、作品に対する創造者自身の愛だけです。
もしヤハウェのこらしめを受け入れるなら、罪に対する罰を心から受け入れるなら、たとえ前述の災いによって最後に異国に連れ去られたあとであっても、イスラエルの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブとヤハウェが結んだ契約は効力をとりもどす、とヤハウェは約束しています。

さて、ヤハウェに従うのと従わないのと、仮に損得だけで考えたとして、あなたならどちらを選びますか?そしてイスラエルはどちらを選ぶのでしょう。

本誌読者はもう予想できてしまうかもしれませんが、イスラエルはのちに段々と「従わない」に傾いていき、ヤハウェの「まだわからないのか」の声もむなしく、滅びに向かっていきます。
イスラエルはソロモン王の時代に非常な繁栄を謳歌したあと、ソロモンの晩年からヤハウェを離れていき、やがて王国は分裂し、外国軍に踏みにじられ、民はアッシリアやバビロンに捕虜として引かれていくのです。

でもペルシャ王キュロスの「ヤハウェがわたしにエルサレム神殿の再建を命じたので、ユダヤ人はイスラエルに帰るように」という奇跡のような布告によって、彼らは帰還してくることになります。

請願(27章)

以上でヤハウェがイスラエルに命じたおきては終わりですが、最後の27章には、宗教的な義務ではなく、つまりヤハウェに命じられたからではなく完全に個人の自由において行われる"請願"について規定されています。
これまで読んできた奉納はおもに、ヤハウェからすでに受けた恵みに感謝するもの、あるいは犯した罪を清算するためのものでしたが、請願はいわゆる願掛けに近く、ヤハウェがこの願いを聞き届けてくれたときにはある事をする、あるいはあることを絶つ、と誓うことです。

永田町の政治用語では「天地神明に誓って」は「ウソです」という意味のようですが、自由意志とはいえ一度ヤハウェに誓った請願は必ずはたさなければなりません。
このため、請願は必ず自分の口で言い表さなければならないとか、娘が請願を立てても父親が承認しなければ無効であるなど、軽々しくなされないようになっています。

「祈りがかなえられたときには自分自身を奉納する」という請願の場合、それは財産で代わりに奉納されます。その額は、たとえば20歳~60歳の男性の場合は銀約500gでした。ヤハウェの前では身分の違いなどは考慮されず、年齢と性別だけが基準です。ただし貧しい場合には、祭司が個別に算定するとされました。

銀以外にも、家畜、家、畑などを奉納して誓いをはたすこともできましたが、請願をたてる前からヤハウェのものである物、たとえば家畜の最初の子や、収穫の十分の一は、請願とは関係なくすでにヤハウェのものですから、それを請願のためにも奉納するということはできません。
また、土地の場合は、例の"ヨベルの年"までの残り年数を考慮して評価されました。

その他、27章には請願に関していろいろ規定されているのですが、難解なところもあるのでこれくらいにしておきます。

結び

[以上は、主【ヤハウェ】がシナイ山において、モーセを通してイスラエルの人々に示されたいましめである。]ということばで、レビ記は終わっています。

エジプトを脱出してきたイスラエルが、シナイ山でヤハウェから授かった律法がレビ記でした。
次の第4巻「民数記【みんすうき】」から、イスラエルの民族大移動に話が戻ります。シナイ半島でのことが語られたあと、いよいよ約束の地カナンに向かって進んでいくのです。

とはいっても頑迷なところの多いこの民のことですから。。。

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#104
作成:2002年3月15日
更新:2002年12月13日

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