レビ記 第11回

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性的な聖潔(18章)

18章では、イスラエルが今まで暮らしていたエジプトの風習や、これからヤハウェがイスラエルを連れて行くカナンの風習に染まらないように、ただヤハウェの法と掟【おきて】に従うようにと命じられています。

その筆頭が、性的な風習についてでした。肉親の女性と交わることや、同性と交わること、動物と交わることが禁じられています。
これはレビ記の中でも、レビ記以外の巻でも、繰り返しいましめられていることです。一番やってしまいやすい罪、ということなのでしょうか。

ところで注意していただきたいのは、ここで禁じられているのはあくまでも肉欲的な交わりである、ということです。聖書を根拠に「神が認めている」などといって同性愛者を差別したり傷つけたりすることは、愚かな曲解としか言えません。
キリストは「互いに愛し合いなさい」(*1)と教えています。旧約聖書でも、若かりし頃のダビデと先王の王子ヨナタンについて[ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。](*2)など多くの記録が聖書にあります。

ヤハウェは、カナン人を追い出してイスラエルを入植させることについて、[これらはすべて、あなたたちの前からわたしが追放しようとしている国々が行って、身を汚していることである。これらの行為によってこの土地は汚され、わたしはこの地をその罪のゆえに罰し、この地はそこに住む者を吐き出したのである。]と説明しています。
そもそも、なぜヤハウェはアブラハムの時代から4世紀も約束の実現を遅らせていたのかといえば、[それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないから](*3)カナン人に対して執行猶予していたのです。もしイスラエルがおなじ罪をおこなえば、彼らもまたこの地から吐き出されるのです。

細則(19章~20章)

聖なる者となれ

「なぜ人は正しく生きなければならないのか」という問いには、各時代に各方面から多くの答えが提案されていますが、現代においては「結局のところ、自分がされたくないことは他人にもしないように」という以上のものがなくなっているように思われます。この相対的というか相互保障的な考え方に対し、聖書の答えは絶対的です。
ヤハウェは[あなたたちは聖なる者となりなさい。]なぜなら[あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である]のだから、と命じています。聖なるヤハウェに創造された人間は、聖なる者になれるのであり、子が親を 目標にするように人はヤハウェの聖性を目標にしなければならない、と聖書は命じているのです。

諸国の民からの区別

[わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。][あなたたちの前からわたしが追い払おうとしている国の風習に従ってはならない。彼らの行為はすべてわたしの嫌悪するものである。]という宣言のもとに、異教の風習が禁止されました。

これまで見たように、性的な禁忌が重ねて禁じられたほか、占い、呪術、死者の霊を呼び出す口寄せが禁じられています。聖書は「占いや呪術など存在しない」ではなく、それらの存在を認めて、しかしそれらを堅く禁じているのです。

人は、ヤハウェ(神)の側であるか、サタン(悪魔)の側であるかのどちらかしかない(「どちらかといえば」や「どちらでもない」はサタン側となる)のですが、占いは反ヤハウェ的(つまりサタン的)なものだからです。
ヤハウェ側とは、未来のことも含めてすべてをヤハウェにゆだねて今日を生きることですから、あえて未来を知ろうとすることはヤハウェに敵対するものです。
口寄せは、人の生き死にはヤハウェの領域ですから、ヤハウェが死に定めた者を呼び出すのは反ヤハウェ的ということになります。

[自分の子をモレク神にささげる]ことも禁じられました。
ヤハウェ信仰で「子供をささげる」とは、ヤハウェのために生きることで、後の時代のサムエルやサムソンのように、ヤハウェとその民イスラエルのために活躍します。しかしモレク神信仰で子供をささげるとは、火の中に投げ込んで焼き殺し生け贄にすることなのです。
この罪に対する罰は、石打ち(受刑者に民が石を投げつけて殺す死刑)でした。しかし実際には、後の時代にヤハウェを離れたイスラエルはこのおぞましい風習にも染まることになるのです。

その他、19-20章で命じられている規定を、すでに命じられた規定を確認する部分などは省略して、いくつか紹介します。

[穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。]

経済が大事にされる時代は、いかにロスを少なくするかが要求されます。でも聖書は経済第一ではありません。それに実際には、世の中も経済第一ではありませんね。少なくとも京都議定書を批准しようとする国は、国内経済を優先して脱退する国よりも、目先の経済以上に大事なものもあると知っていることになります。
それに「何をつくっている会社かと聞かれたら、人をつくっている会社ですと答えなさい」と社員を教育していた松下幸之助の例は、人として豊かになることで、経済的も豊かになる道があることを示しています。

[わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名をけがしてはならない。わたしは主である。]

十戒で[あなたの神、主の名をみだりにとなえてはならない。]と命じられたイスラエルの人々は、これを厳密に守ろうと努力するあまり「"みだり"にの程度かわからないから、一切ヤハウェの名を口にしないことしかない」と考えるようになってしまいました。
ですが古来(*4)より、礼拝する時や祈る時には神の名を呼んでいたのです。そういうときには、じゃんじゃん口にしていい。
禁じられたのはあくまで、創造者の名をけがすようなとなえ方なのです。たとえばアメリカ人には、ののしるニュアンスで「Oh my God!」とか「Jesus!」などという習慣を持つ人がいるようですが、これはもう「みだりに」にもほどがあるというところです。

[白髪の人の前では起立し、長老を尊【とうと】び、あなたの神を畏【おそ】れなさい。わたしは主である。]
電車で席をゆずろうとしたら「年寄り扱いするのか」と怒られた、なんて話しをよく聞きますが、聖書は「老人をあわれみなさい」ではなく「尊びなさい」と命じています。
お年寄りで弱っていてかわいそうだから席をゆずるのと、年長者に対する敬意から起立して席をゆずるのでは、全然意味が違います。
年長者も、同情と思って意固地になるより、今どき年長者への敬意を知っている若者だと受けとめてほしいと思います。

[あなたたちは、不正な物差し、秤【はかり】、升【ます】を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。]
大きな不正も、最初は小さなごまかしから始まることが多いものです。それが段々「これくらいならいいだろう」「ここまでやってもどうってことないか」と感覚が麻痺していく、というケースが多いのではないでしょうか。


*1 ヨハネ福音書13章34

*2 サムエル記一18章1

*3 創世記15章16

*4 創世記4章26

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#101
作成:2002年2月22日
更新:2002年12月13日

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