レビ記 第8回

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大事件(10章)

ここまですべてヤハウェの命じたとおり掟(おきて)に従って進んで来たのですが、早くも大事件がおきてしまいました。幕屋の中には、香を焚(た)くための祭壇があったのですが、アロンの子で祭司に任じられたナダブとアビフという二人が、規定に反した炭火で香を焚いたのです。これに対して、ヤハウェがただちに二人を焼き殺したと記録されています。
就任したばかりの祭司が、おきてに反した上に、ヤハウェみずからによって死刑になるとは。(祭司が"誤って"罪をおかした場合には、あがなう方法が規定されていましたが、わかっていて罪を犯すのはヤハウェをあなどることなのです。)

モーセはすぐに、死んだ二人の親族でもある祭司エルアザルとイタマルに、髪を振り乱したり着衣を裂くなどして二人の死を悲しむことを禁じ、さらに葬儀に加わらず神域内でのおつとめを続行するよう命じました。
遺族に酷なという気もしますが、モーセは「もし悲しみを表すうちに、祭司がヤハウェのさばきに不平を表しかねない」と考えたのでしょう。

この事件の直後、今まではモーセを介して語りかけていたヤハウェが、[主はアロンに仰せになった]とじかに、死んだ二人の父であると同時に今は大祭司という最高責任者であるアロンに向かい合いました。そして、幕屋に入る時は酔っていてはいけないということ、祭司の基本は"聖or俗"や"清いor汚れた"を区別すること、祭司はヤハウェのおきてを民に教える者であることが念を押されました。

ところが、またもモーセが激怒する事態になったのです。
モーセがアロンたちに、規定に従って奉納物のうちの許された部分を食べるようにと言っておいたのに、アロンの子の残った二人がそれを祭壇で燃やし尽くしてしまっていたようです。

自分の食べる分までヤハウェにささげたのだから、認められることはあっても怒られことではないのでは?いえ、民を代表してヤハウェとの食卓につくべき祭司にとっては、明白な違反です。たとえば王宮の晩餐会に招かれておいて、料理に一切手をつけないようなもの。そんなことは王に非礼でしょう。まして焼きつくしてしまっては、大祭司がいけにえの血をとって幕屋の中の聖所に持っていくという規定も実行できません。
あるいはモーセには、事件の直後に「ヤハウェに裁かれて死んだ者を悲しむな」と言っておいたのに、悲しみのために断食したと見えたのかもしれません。それにモーセにとっては、絶対者ヤハウェのおきてを曲げるすべてのことは問題アリなのです。なにしろ、弱者をかばうためであっても不正な裁判をしてはならないと命じるのがヤハウェの正義なのです。

ところが、アロンの考えは違いました。奉納物のうちの食べてよいものとはいえ、今日のようなできごとのあとで祭司が奉納物を食べるなら、それはヤハウェに喜ばれただろうか、とモーセに答えたのです。
一方では人を愛し抜くヤハウェが、一方では正義そのものであるために二人を焼き殺さねばならなかった。そのヤハウェの悲しみと痛みはどれほどだろうか。そうアロンが考えたと想像するのは持ち上げすぎでしょうか。ですがモーセも、アロンの弁を聞いて納得したと記録されています。

モーセは"ヤハウェの正義"を第一とする方針でこの事件を処置しようとしました。それに対してアロンは"ヤハウェを愛する"を第一に考えたのです。(どうしたら相手の喜びになるかを考えるのが、愛の基本ですよね)

アロンの「主が喜ぶだろうか」のことばにモーセは、自分が教条主義(おきてが絶対)的になっていたことに気付いたのです。ヤハウェに従う思いからとはいえ、私は一生懸命すぎていたのでは、と。
のちにキリストも、ヤハウェが好むのは[あわれみであって、いけにえではない]と教えています。

正義だけを考えて、他人や自分にきびしく当たるだけになってもいけない。愛だけを考えて、かえって「ためにならない甘やかし」になってもいけない。
「その正義に愛はあるのか」「その愛に正義はあるのか」の両方が大事。まして、正義そのものであると同時に、愛そのものであるヤハウェが相手のときはなおさらでした。

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#098
作成:2001年11月30日
更新:2002年12月13日

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