レビ記 第6回

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食べてはいけないもの(7章22節~27節)

次の[主はモーセにおおせになった]は、食に関する禁忌でした。
「食べてよいもの/いけないもの」の規定というのは、宗教を理解しにくくするもののひとつだと思います。仏教でいう"不殺生戒"のように、命を奪うこと自体を禁じるならわかりやすいのですが。とにかく読んでみましょう。

モーセ律法では、次のものが、食べてはいけないものでした。
 (1) 奉納物のうちの、燃やしてヤハウェの分にするもの。
 (2) 血[鳥類および動物の血は決して食用に供してはならない。]
 (3) 不浄なもの(けがれているとされる動物など)

(1)については、脂肪という"一番よいもの"をヤハウェの取り分として祭壇で燃やすものです。主権者ヤハウェの権利というだけでなく、愛する人に一番良いものを贈るようにしてヤハウェを愛するということでもあります。

(2)は、生き物の生命は血にあるとして、肉はありがたく食べるけど命は創造者にお返しするということです。
ということは、血のしたたるようなステーキとかはNG。

聖書では「動物」と「地を這うもの」は区別されていますので、動物にあたらないマムシの血ならよいかというと、血がどうの以前にマムシ自体が(3)のほうに該当するのでNG。詳しくは11章で読みますが、爬虫類はすべてなのです。(両生類のスッポンの血ならいいのか?)

ところが、モーセ律法を重んじる宗教のうち、ユダヤ教やイスラム教の厳格な人たちはこの規定を守っていますが、キリスト教徒は守っていません。ステーキも食べるし、フランス料理には鳩の血を使った料理もあります。日本にはマムシやスッポンの生き血を飲ませる店もあります(日本人クリスチャンが生き血を飲んでばかりいるというのではありませんので、念のため。ちなみに筆者は食わず嫌いです)。
なぜかというと、食のタブーは神キリストによって、次のように改定されているのです。[すべて外から人の体に入るものは、人をけがすことができない。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。](マルコ福音書7:18-21より抜粋)
「排泄されるだけ」とは、わかりやすくもユニークな言い方ですが、もとはといえば天地創造の時点ではすべてのものが「よいもの」だったのです。

この食物規定に違反した場合ですが、奉納物のうちのヤハウェの取り分や、ヤハウェに返すべき血を口にした場合、これはヤハウェから盗むも同然ということで、死刑。
けがれたものを食べた場合、創造者に似せてつくられた人間である自分をけがすことはヤハウェをけがすことにもつながるので、やはり死刑。けがれは人に移るとされていることもあって、民の中から絶たれなければならないのです。

第1部の締めくくり(7章28~38節)

最後に、前にもふれた「和解のささげもの」についての指示があり、以上第7章までで、レビ記は一区切りとなります。

おまけ

キリスト教をベースにつくられた某宗教では、「血を食べるな」という戒律から、他者の血をとりこむ輸血も禁じられていると主張しています。でもヤハウェは、血が他の命を救うために使われることまで禁じていないません。個人的な見解としては、ヤハウェに返すべき血によって人命を救うことは、ヤハウェが命を救うことになるのではないかと考えます。

創造の初めにはヤハウェ自身が、すべてのものを「それはきわめて良かった」と言っているのに、いつから、清い動物とけがれた動物の区別が定められたのでしょうか。植物だけで満ち足りて肉食の必要がなかった時代にはこの区別も必要なかったはずなので、人の堕落によって罪がこの世界に入ってからのものでしょう。ではなぜ区別が生まれたのか。
たとえば、幼児にいきなり「心がきれい/きたない」と言ってもたぶんわからないですよね。「手がきれい/きたない」など、わかりやすく目に見えることから教えていかないと。
罪のためにけがれた人間にヤハウェは、動物に区別を定めることで「清い/けがれている」を教えようとした、そして人間がわかってきたところで、キリストが「実は食物によって人がけがれることはないんだよ。人から出てくる悪い思い、つまり罪が人をけがすんだ」と一歩前進させたのではないでしょうか。

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#096
作成:2001年11月15日
更新:2002年12月13日

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