レビ記 第2回

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日常のささげもの[1](1章~3章)

前号でも書いたとおり、レビ記には「主はモーセに仰せになった。」というフレーズが繰り返し出てくるので、最初はこれをキーに、ヤハウェが命じた律法を見てみましょう。最初のそれは、いわば”日常のささげもの”についてでした。

焼き尽くす献げ物(1章)

「全焼のいけにえ」とも訳される奉納についての規定です。奉納物は雄牛、雄羊、雄山羊、山鳩、家鳩のヒナ、とされました。奉納者の経済状態によって、この五段階があったようです。

家畜の場合は、まず奉納者が家畜の頭に手を置き、そして奉納者自身がこれを殺します。
祭司は、生け贄の血を器にとって、幕屋の庭にある青銅の祭壇の四方の面に注ぎかけます。
奉納者が生け贄を解体すると、祭司は祭壇に薪を準備して火をつけ、皮以外のパーツを乗せて燃やします。四肢と内臓は不浄なので、奉納者が水で洗ってからにします。

鳥の場合は、すべて祭司が処置します。
まず首をもぎとって、血を祭壇の四面にしぼりかけます。
餌袋は中身ごと、(別の訳では羽とともに)捨てます。
そして翼をつかんで胴を、一部を残して引き裂き、祭壇で燃やします。

この中で特に注目するべきなのは、いけにえの頭に手を置くという行為です。これは、手を置くものと置かれるものの一体化を意味しています。
ここでは、このいけにえは奉納者自身であるとして、奉納者自身が死ぬ代わりにいけにえを殺し、また奉納者自身をヤハウェにささげる象徴として、いけにえを燃やした煙を天に立ち上らせるのです。

自身を献げることを献身(けんしん)といいますが、牧師や司祭などは人生まるごと創造者に献げてしまった人たちです。またキリスト教の礼拝では献金ということがおこなわれますが、これは礼拝の会費などではなく、まして政治献金などとも違うもので、創造者への感謝を表すために喜んでささげると同時に、自分自身をささげる象徴として生活の糧をささげるのです。

焼き尽くす奉納は、義務付けられている場合(不浄とされた者が清められたときなど)もありますが、幕屋(のちには神殿)で毎朝毎夕にささげられるほか、毎週の安息日、毎月の一日などでは、ヤハウェがイスラエルの神であり、イスラエルがヤハウェの民であるために、イスラエルが自分をヤハウェにささげるためのものです。

穀物の献げ物(2章)

穀物を奉納物とする場合の規定です。動物のいけにえにそえるようにささげられたようです。
奉納者は上等の小麦粉を献げ物として、それにオリーブオイルを注ぎ、乳香という香料をのせます。これを受け取った祭司は、オリーブオイルのかかった小麦粉から一つかみと、乳香全部を、祭壇で燃やします。小麦粉のままではなく、パンにするなど調理して奉納するのも可です。

燃やさなかった分は、祭司の取り分となります。人が創造者に奉納したものの中から、創造者が祭司を養うのです。
イスラエルがのちにカナンを占領したとき、部族間で土地を分割するのですが、祭司であるレビ族は土地をもらえません。他の部族は、収穫などのかたちで神の恵みを受けるのですが、祭司たちはもっと直接的に、奉納物の中の取り分というかたちで神の恵みを受けるのです。

「主にささげる穀物の献げ物はすべて、酵母を入れて作ってはならない。酵母や蜜(=果汁のシロップ)のたぐいは一切、燃やして主にささげる物として煙にしてはならないからである。」と念を押されています。
これらは発酵させるもので、発酵は腐敗に通じるもので(納豆嫌いな人の「腐ったものを食えるか」という主張が、ここでは正論になる?)、腐敗は罪や堕落に通じるものだからです。

パンを発酵させる酵母=パン種は、少量を入れて時間を置くと全体を変化させるということで、聖書では誤った教えなどの、人や民を堕落させてしまうものの比喩に使われることが多いです。

和解の献げ物(3章)

”和解”と訳されている言葉は、「完全さ」「調和」「平安」を意味する語から派生したものです。「和解のささげもの」はだから、ヤハウェと人の平和な交流のためのもの、ということでしょう。

一緒に食事をするというのは、人間同士のもっとも親しい交流のひとつでしょう。恋人同士のデートから、体育会系の「同じ釜のメシを食った」という感覚、はては刑務所で同じクサイめしを食った仲などいろいろ。家族は一緒にご飯を食べるほうがいい。和解のささげものは、奉納者と創造者と仲介する祭司の三者が食事をともにして、完全で調和のある平安なまじわりのときとするのです。

大体のところは焼き尽くす奉納と一緒ですが、雌の家畜でもいいこと、それ以上に、脂肪などの部分しか燃やさないことが特徴です。残りが祭司と奉納者の食べる分となります。つまり一頭のいけにえを、ヤハウェと奉納者と、仲介した祭司とで分け合うのです。奉納者や祭司の食事はいけにえをささげる儀式に含まれませんが、象徴的にヤハウェと祭司と奉納者が食事をともにするという考え方です。
シナイ山でも、イスラエルを代表する長老たちが、祭司役のモーセやアロンとともに、ヤハウェの前で食事をしました。

解説

正月などに使う両端が細くなっているお箸(祝箸といったでしょうか)は、一方で自分が食べているときに、箸の反対側の端で神様が一緒に食べるのだそうです。神棚に食膳を模したり、神様になったご先祖が盆に帰ってくるときにご馳走を用意したりします。

といっても、別にお供えが減らなくても「神様が食べてくれなかった」とは思いませんから、これらの日本の風習も象徴的なものなのでしょう。例によって無知な者の発言ですが、私たちの食事と神々の食事をリンクするものとして、これらのことをするのだと思います。

古代中東では「いけにえは神々の食事」考えられていたようですが、聖書はそれよりも日本的な感覚に近いもので、次にあげるように神が食べるというのはあくまでも象徴的・比喩的です。

たとえ飢えることがあろうとも
お前に言いはしない。
世界とそこに満ちているものは
すべてわたしのものだ。
わたしが雄牛の肉を食べ
雄山羊の血を飲むとでも言うのか。(詩篇50:12-13)

この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。(使徒言行録17:24-25)

『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。(マルコ福音書12:33の、イエスと問答した律法学者の答え)

おまけ

和解のささげもののうち、なぜ脂肪がヤハウェの取り分となるかについては、脂身が好物の筆者からすると、一番美味なところを創造者に奉納することだと思うのですが、脂身を食べられない人はどう思われるでしょうか。

ところで、ヤハウェの取り分を燃やし、煙にして天高くのぼらせるのはのは、奉納者がヤハウェに向かって奉納物を高くささげるということです。これによって人は創造者の前に正しい者、義とされるのです。
なお、レビ記などでは家畜の生け贄の筆頭は牛ですが、究極の生け贄であるキリストは「神の子羊」とも呼ばれています。
そういうわけで、これはある牧師に教えてもらったのですが、「我」の上に「羊」を高くささげると「義」という字になるのだとか。

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#091
作成:2001年4月11日
更新:2002年12月13日

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