レビ記 第1回

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レビ記の基礎知識

レビ記本文の解説は次号からとして、第1回はレビ記全体をカンタンに押さえておきます。

タイトル

古代の文書の例に漏れず、旧約聖書の第3巻に収録されたこの書にも書名はなく、巻頭の「主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった」から「そして彼(=主)は呼び寄せた」という書名で呼ばれるか、あるいは「祭司の律法」と呼ばれていました。

レビとはヤコブの三男の名前で、のちにヤコブの12人の息子はイスラエル12部族の祖となり、レビの子孫もレビ族と呼ばれるようになりました。
レビ自身は乱暴なところのある人間だったようで、兄貴のシメオンと一緒に親父殿からボロクソに言われています(創世記34,49章)。
でも金の牛事件では、レビの子孫たちは周囲に流されることなく、ヤハウェに従いつづけました(出エジプト記32章)。そしてレビ族の「アロンとその子ら」が、イスラエルの民の中で祭司職にあたることになったのです。
それは先祖のレビが生まれたときから、ヤハウェが決めていたことなのかもしれません。というのは、祭司の役目とは人間と神を結ぶことですが、レビという名自体が“結ぶ”という意味のヘブライ語から派生しているのです。

レビ記には、いけにえのささげ方など礼拝に関することや、祭りについてなどが記されています。それらをとりしきるのは祭司レビ族なので、彼らの名が本書のタイトルになったのでしょう。

著者

例によって著者のサインなどありませんが、シナイ山でモーセがヤハウェから命じられたおきての書なので、モーセが著者と言ってしまっていいでしょう。

ただ、法令集ですから、まったく改変されていないとも考えにくいです。あるいは、モーセよりのちの時代に加えられたり、変更された条項もあるかもしれません。
だとしても「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」たと聖書自体が証言していますから、改変部分も含めてすべてヤハウェがイスラエルに啓示したものです。
(といっても、ヤハウェが最初に与えた法が不完全だったわけではありません。法は社会の変化にあわせて改変されるものというだけです。スピード違反の法律ができたのは、車が登場してからですよね)

聖書では「モーセの書」が律法の代名詞ともなっていますから、本誌では便宜上、本書全体を「ヤハウェがモーセを通してイスラエルに与えたもの」として進めます。

モーセよりはるか後代の書とする説もあるようですが、一巻にまとめられたのが後代であるとしても、そのもとになった文書や口伝えはモーセに由来するものでしょう。本書中には「主はモーセに仰せられた」という言葉が何十回も繰り返されています。

位置付け

創世記の最後で、イスラエルと呼ばれたヤコブの一族がエジプトに移住。そして出エジプト記では、エジプトでの艱難辛苦からヤハウェの強烈な介入によって脱出。さあ、約束の地カナンへ入植するぞというところで、物語りの進行がとまって、法律集のレビ記と、人口調査の記録などの民数記[みんすうき]が続きます。

一見、盛り上がりを冷ましてしまうようですが、この配置にはとても意味があるのです。
出エジプト記で、ヤハウェがイスラエルに臨む場として、幕屋が建設されました。創造者ヤハウェがイスラエルの民の中に住む、とまで表現されています。
そこで、民のヤハウェに対するありかたとして、レビ記が出エジプト記の次、旧約聖書第3巻として置かれているのです。
まだ国土を持っていませんが、200余万の集団は国家といってしまっていいでしょう。それはヤハウェを王とする君主制(神政政治)です。となれば、王の居城である幕屋もできたことだし、次はやはり法整備でしょう。
そして、王ヤハウェがどれだけの民を目にかけ、恵みをほどこしておられるかという、民数記に続くのです。

モーセ五書+ヨシュア記の、人類が創造され、そこからイスラエルが選び出され、ヤハウェの約束が実現していくという旧約冒頭の6巻の記録にあって、エジプト脱出までを第1部、カナン征服を第3部として、レビ記と民数記は単調な”つなぎ”などではなく第2部として重要な位置にあるんです。
(そうはいっても、読破しようとすると、眠気が・・・)

内容

1章から7章は、民がヤハウェに、何を奉納するのか、どうやって奉納するのか、どういうときに奉納するのか、といったことが規定されています。
8章から10章では、民とヤハウェのあいだで、祭司がどのような仕事をするかの規定です。
以上をひっくるめて、レビ記の前半はヤハウェと人間との関係における規定になっているわけです。

11章からは、人がどうなると「けがれた」とされ、どうすれば(どうなれば)「きよめられた」とされるかといったことや、祭りについてなどが規定されています。
レビ記の後半は、人間の日常や生活にかかわる規定になっているのです。

言いかえるなら、前半は「礼拝についての規定」、後半は「礼拝者についての規定」ということになります。

レビ記、とくにその後半を読んでいくと、なぜこんなに「きよい」とか「けがれている」とかこだわらなければならないのか、と思われるかもしれません。

でもこれ、意外とわたしたち日本人にはけっこう理解しやすいのではないかと思います。

たとえば日本には「みずごり」というものがありますね。白装束で、井戸水などを頭からかぶったり滝に打たれたりするあれです。
みずごりは水垢離と書きます。水で、垢(あか)つまりよごれを、我が身から離す、という意味なのでしょう。神前に願い求めるために身を清めるというのは、聖書でいう「聖別」と通じるものがあります。

ほかにも、冬場だろうといつだろうと、神事の前にはたいがい身をきよめます。葬式帰りには塩をふってきよめます。
昔は相撲(すもう)はそれ自体で神事だったそうですが、現代でも力士は、土俵に塩をまいて清め、四股(しこ)を踏んで地中から邪を追い出してから勝負に入ります。
起工式や映画のクランクイン前など、何かを始める前にはおはらいをしないと、どこか落ちつかないようです。

「清められなければならない状態」をとても気にするわたしたち日本人は、もしかしたら欧米人よりもレビ記を理解できるのかもしれませんよ。
実際、神道とユダヤ教の関係についての研究もけっこう盛んなのだそうです。偶然とは思えないほど、似ているところが多いのだとか。

レビ記を読むのは、疲れるし退屈にも思うでしょう。(少なくとも筆者はそうでした)
そんなときには、「これ、日本にもあるじゃん」というところを探しながら読んでみるのも、読破のコツかもしれません。

では、次号からレビ記の読破にかかります。

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作成:2001年4月3日
更新:2002年12月13日

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