出エジプト記 第34回

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インマヌエル[1]

ヤハウェとの契約に対する明確な違反の証拠だった、金の牛は片付けました。その違反の首謀者たちも、泣いて馬謖を切る思いで断罪しました。

こうして契約違反のあとしまつをしたモーセは、最後の大仕事に向かいます。ヤハウェとの契約再締結です。

32章30-35

同胞を裁くという悲惨な夜が明けた朝、モーセは民に「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のためにあがないができるかもしれない。」と告げて、みたびシナイ山に登っていきました。
「あがなう」とは、代償を払うという意味です。わかりやすくいえば弁償するということですが、モーセは何を代償にこの民の罪をあがなおうというのでしょうか。

ヤハウェのもとに戻ったモーセは、ヤハウェにこう切り出しました。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦(ゆる)しくださるのであれば……。」
ここまで言って、モーセはヤハウェの返事を待ったようです(最後の「……」のところが、ヘブライ語の原文でどうなっているのかわかりませんが)。

なのにヤハウェは黙していた。
愛であるヤハウェは、イスラエルを赦したい。でも正義であるヤハウェは、イスラエルを赦すことができない。この苦悩のために、ヤハウェは沈黙していたのです。全能である創造者が、愛する人間のために苦しまなければならないとは。

モーセはこのヤハウェの苦悩を察することができたか。それともイスラエルが赦されることなどありえないのだ、と絶望したかもしれません。そして、イスラエルとともに滅びることを願ってこう言いました。「もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」

「イスラエルの罪をあがなえるかも」と言って登ってきたモーセですが、あがなえるかもなんて期待さえできない状況。それでももしあがなえるものなら、自分自身をあがない金としよう、あがないきれないならイスラエルと共に滅びようというのです。
イスラエルが滅びるなら、イスラエルを率いる責任があった自分も滅びなければなるまい。。。

モーセの思いを見たヤハウェは、ついに沈黙を解きました。そして、執行猶予という結論を出したのです。

「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」

今は、ヤハウェ自身がアブラハムとその子孫に約束してきた地へ進むがいい。しかし「裁きの日」には、創造者はすべての人を天国行きか炎行きか裁判する、というのです。

それまで罪を見過ごすというのではありません。
創造者は「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(*1)ということを承知で、しかし「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(*2)

これでやっとモーセは安心したのでしょうか。
ただちにイスラエルが滅ぼされるのではなく、悔い改める時間が与えられたということではそうでしょう。しかし今のヤハウェのことばには、ひとつだけひっかかるところがあったのです。
使いがイスラエルを導いていくだって?ヤハウェは、もう我々とともにいてくれないのか?

33章1-6

ヤハウェは、モーセの懸念を知ってか知らずか(いえ、もちろん全知ヤハウェは知っているのですが)、もう一度繰り返しました。
わたしがアブラハムたちに「あなたの子孫に与える」と誓った土地カナンへ行け。わたしは使いをイスラエルの先に遣わし、諸部族を追い出す。「しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。」

ヤハウェが山の上に、イスラエルがふもとにいるときは、ヤハウェがイスラエルを滅ぼさなければと思ったときにモーセがとりなす余裕がありました。ヤハウェがイスラエルの民の中に住むために、あれほど事細かな指示で幕屋を建てるよう命じられたのですが、この頑迷なイスラエルの真中にヤハウェ住んだら、もしイスラエルがまた何かやったらモーセや祭司がとりなす間もなく、ヤハウェがイスラエルを滅ぼすことになりかねない、ヤハウェはそう言うのです。

ヤハウェはイスラエルとともには行かない!?
モーセからこれを聞かされた民は、嘆き悲しんだと記録されています。ようやく、自分たちがしでかしたことの罪深さを悟り、悔い改めはじめたのです。ヤハウェの命令によりイスラエルはすべての装飾品をはずしたと記録されていますが、これも悔い改めを表明するものでしょう。

解説

ヤハウェの「書」とは、何か。
モーセが自分自身の存在をかけている文脈なので、そこから名が消されることが死を意味するようなものだと考えられます。
といっても実際にリストになっているものというよりは、ただ「私の命を断ってください」という意味の表現ではないかと思うのですが。(でもこう思うのは、本当に名簿だったら自分の名がそこにあるのかがすごく気になりそうだからかも)

つまり、ヤハウェが創造した命あるものの名が記されている書だろうということです。その書から名が消されるとは、命が消されることになります。
落語「死神」の、寿命のローソクのようですが、落語「死神」はイタリアの喜歌劇から題材を取っているそうなので、実は今回の聖書箇所がおおもとのもとかもしれません。

ヤハウェの「書」には、さらにもうひとつの意味があると言われます。ヤハウェに属する者の名が記されているもの、つまりヤハウェの王国である天国に入る者の名簿であるというものです。
この書から名が消されるとは、ヤハウェに属さない者とされることであり、つまり天国に入れなくなるということです。
そうなると、どうなるのか。ヤハウェの裁きには、ふたつの判決しかありません。永遠の天国か、でなければ永遠の炎に投げ込まれるかです。そう考えると、「私の名を消してください」と言ったときのモーセの悲壮感が感じられてきます。


*1 創世記8:21

*2 ペトロの手紙二3:9

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#086
更新:2002年12月16日

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