出エジプト記 第21回

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契約の書(1)

十戒に続く部分は「契約の書」と呼ばれています(→24章7)。その契約の内容を見ていきましょう。(一条ずつ解説していくとなかなか読み進められないので、さっくり行くことにします。聖書を持っているかたは、ぜひ聖書もお読みください)

礼拝について(20章21節~26節)

「本当に神がいるなら、姿を見せてくれれば信じらるのに」なんて思ったことはありませんか。このときのイスラエルは、本当に神がいるという現場で、「あなたたちは、わたしが天からあなたたちと語るのを見た」とヤハウェから言われました。自分の耳目にかけてこれらのおきてを守れと、契約の条項が提示されます。

その第一は「偶像の禁止」。十戒の第二戒にもありますが、銀や金の神像について特記しています。
実はこのあとすぐに、イスラエルは金で子牛の偶像を作り拝むのです。だからヤハウェはここで警告しているのかもしれません。

また、土あるいは自然のままの岩で祭壇をつくり、牛や羊をそこでささげることが命じられました。見方を変えると、土や岩があるところなら加工道具がなくてもヤハウェを礼拝できる、ということになります。事実、ヤハウェはこの命令の中で「わたしの名の唱えられるすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」と確約したのです。

階段を使って祭壇に登ることも禁じられ、それは「あなたの隠し所があらわにならないため」と説明されました。
バベルの塔の記録や、南米のピラミッドなど、高いところをつくって神々に近づこうとする宗教も多い。また、性的にみだらな行いがされることも多い。しかし、ヤハウェを礼拝するためには、高いところに登る必要も、性的なあおりも無用と規定されたのです。

奴隷について(21章1節~11節)

イスラエル人が同朋を奴隷として買う場合の規定です。

普通、奴隷が自由になるためには対価が必要です。それがここでは、同朋を奴隷にできるのは6年間だけで、7年目には無償で自由の身になれると定められました。
さらに申命記(*1)では、奴隷が7年目に自由になるときには主人は手ぶらで行かせてはならないと追加されました。それまで奴隷を働かせていた羊の群れ、脱穀場、醸造所などから、惜しみなく持っていかせるようにとされたのです。

つい50日前まで、イスラエルはエジプトで奴隷になっていました。しかしイスラエルは無償でそこから救い出されたばかりか、エジプト人から金銀の装飾など大量の贈り物をもらって出発するように、ヤハウェが計らったのです。
この規定は、ヤハウェの恵みを忘れてはならないということでしょう。

女性の場合はさらに保護されます。女奴隷はおもに妾として買われましたが、奴隷として買われた妾であるにもかかわらず、主人は彼女に対して次のような義務を負うのです。

主人がこれらに違反した場合、この女奴隷は無償で自由になることができるとされました。

男は7年目に財産を得て自由になり、女はまるで妻のように扱われる。しかも十戒の第四戒では、安息日には奴隷に労働させることさえ禁じられています。
まるで、わが身を売るほどの苦境に陥った同胞を保護救済するのが目的であるかのようです。少なくとも欧米にあったような奴隷制度を「聖書が認めている」とは言えないでしょう。

奴隷についてのQ&Aもご参照ください。)

死刑(21章12節~17節)

十戒の第六戒で禁じられた殺人について、その刑罰は死刑であると定められました。

ただし。故意ではなく死なせてしまった場合(聖書は「偶然、彼の手に神が渡された場合」と表現)、死刑には相当せず、「逃れの町」として定められた町に逃げることが許されました。そこに逃げ込めば、被害者の遺族といえども手を出すことは許されません。裁判の前に遺族に復讐されないよう保護するものです。
その一方で、故意の殺人のときには祭壇の前からでもひっとらえて処刑することとされました。

その他の死刑に相当する犯罪も列挙されます。父または母を殴ったら死刑。誘拐犯は人質の安否にかかわらず死刑。父または母をののしったら死刑。

十戒の第五戒で、父母をうやまうことが命じられました。尊敬に値する親かどうかは関係なく、ただ親であるというだけで、子は親を敬わなければならないのです。

子は両親を通して、ヤハウェから命を与えられます。石コロから人を造り出すことさえできるヤハウェ(→マタイ3:9)が、人間を創造するという仕事を親に手伝わせているのです。このことだけでも、子は親をうやまわなければなりません。まして、ののしったり殴るなどは言語道断です。
同時に親にとっては、自分たちが生んだと言っても、子はヤハウェが命を与えたものです。ヤハウェから託されたという重大な責任感を持って育てなければなりません。「授かりもの」という日本語は、キリスト教的にも深みのある言葉です。

そんな、親にとってもヤハウェにとっても大切な子を誘拐するなどとは、これも言語道断というものです。

目には目を(21章18節~27節)

「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷(なまきず)には生傷、打ち傷には打ち傷をもってつぐなわねばならない」

有名な言葉がでてきました。
いわゆる同害復讐法というのはかなり厳しいように思えます。「愛の教えとかいいながら『目には目を』なんて」とキリスト教を攻撃する人もいます。しかし。

ちょっと足を踏まれると、思いっきり踏み返したくなる。一発殴られたら二発殴り返したくなる。復讐心というものは一度始まったら止まらないどころか大きくなる一方というのは、「ロミオとジュリエット」のモンタギュー家とキャピレット家を例に出すまでもない。

このおきてが定められる前、創世記34章でヤコブの息子たちが、ある男に妹をけがされたときその男の住んでいた町を全滅させています。男を皆殺し、女子供は捕虜にして、家畜は一匹残らず分捕りました。その結果彼らは、今度は周辺の諸都市からの復讐に怯えることになったのです。(→創世記34章)

そんな時代のそんな社会において「やられても、やられた分しか復讐してはならない」は、当時としては画期的なことだったのです。
このおきては、キリストによって「右の頬を打たれたら左も差し出しなさい」と改訂されました。しかし聖書は、復讐するよりも敵を愛することを、キリスト登場のはるか以前から命じてもいるのです(→レビ記19:18,箴言25:21)


*1 申命記
旧約聖書の第5巻。モーセが死を前にして、それまでにヤハウェがイスラエルに命じた律法を解説した内容となっている。

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作成:2000年9月7日
更新:2002年12月13日

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