出エジプト記 第20回

menu

十戒(20章1節~20節)

山に登ってきたモーセに、ヤハウェは戒律を提示しました。「十のことば」(*1)と呼ばれる、有名な十戒です。

前文

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

十戒は、このおきてを与えたのが何者であるかの宣言ではじまっています。文語訳では「われは汝の神エホバ」ではじまっています。(聖書の神の名については、エホバは誤読であることがわかっていて、現在はヤハウェ(又はヤーウェ)と発音されています)

異国で奴隷として辛酸をなめてきたあなた(イスラエル民族)を、そこからひっぱりだしたわたしヤハウェ、ファラオを屈服させ、大エジプトの軍勢を海に沈めた、わたしヤハウェが、これを提示するのだという宣言です。

第一戒

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」

イスラエルは、長い間エジプトで被支配民として生きてきました。そして今カナン人の土地に入っていこうとしています。 多神教の国エジプトからきて、多神教の土地カナン国にいこうとするイスラエルに「ヤハウェだけが神である」ということを受け入れるように命じています。

第二戒

「あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらにつかえたりしてはならない。」

キリスト教にはご神体や仏像がありません。礼拝堂には十字架があり、宗派によっては聖遺物(キリストの遺品)を非常に大事にしますが、それらに象徴されるキリストに思いを寄せるのであって、モノを礼拝するわけではありません。

第三戒

「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」

ヤハウェの名を軽々しく口にしたり、ヤハウェの名によって人を呪ったりすることが禁じられました。

第四戒

「安息日を心に留め、これを聖別(せいべつ)せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」

なんと、奴隷まで七日目は完全に休めと命じられたのです。
これは「休む権利」ではなく、「休む義務」です。ちなみにソロモン王はこう吟じています。

朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。

人には休息が必要であることを、神は知っています。でも、ただぐうたらに一日をすごせばいいのではありません。その日を聖なる日として世事を離れ、世界を創造した神の偉大さを想う日なのです。

第五戒

「あなたの父母を敬え。」

第四戒までが「神と人の関係」を規定するものだったのに対し、第五戒からは「人と人の関係」の規定になっていきます。その最初が父母を敬えという規定です。
これに関しては、忠孝というものを知るわたしたち日本人は、いまさら聖書に教えてもらうほどのものではない?
このおきての難しいところは、ほかの禁止条項のように「それをしなければおきてを守れる」というものではないということです。「これだけ親を敬ったら合格」とは言えない。日常が肝心なのです。

第六戒

「殺してはならない。」

聖書は、人は神に創造されたと言います。他人を殺すのも自分を殺すのも、神の作品を破壊する冒涜です。
また「人は神に似せて創造された」とも言っています。神の似姿である人間を殺すのも、神を冒涜することです。

第七戒

「姦淫してはならない。」

創世記に「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。結婚は神聖な祝福で、それをけがすようなことをヤハウェはいましめます。

第八戒

「盗んではならない。」

人の財産というのは、ヤハウェがその人に与えた祝福です。他人のものを奪うのは、ヤハウェがその人に与えた祝福を横取りすることでもあるのです。神は「わたしの恵みはあなたに十分である」と言っています。

第九戒

「隣人に関して偽証してはならない。」

日本では人をかばってやるのが情け深いこととして評価されたりもします。でも、強者にこびへつらって偽証するのはもちろん、弱者をかばうために偽証するのも禁じられました。
見逃してやるのは情け深いようですが、つぐないの機会を奪って再出発の道を閉ざしてしまうことにもなるのです。

第十戒

「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

「欲しがってもいけない」というのを、教えやしつけではなく法に定めるとは、これはかなり厳しい。
しかし聖書は「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」とえています。芽のうちに摘むのが犯罪防止に効果的ということです。


戒律ばかりで窮屈だと思うでしょうか。
では、この十条の戒律を守るのと破るのと、どちらが難しいと思いますか?たとえば人を殺して生きるのと、人を殺さずに生きるのと、どちらが易しいことでしょうか。そう考えると、神との関係という点ではその宗教に独特なものがあるとして、人とのかかわりという点では私たちが社会生活において「よいこと/わるいこと」としていることと、変わらないと思うのですが。

ところで、ヤハウェがこれらの戒律をかたったとき、イスラエルの民はどうしていたでしょう。「おお、神のご託宣だ」と喜んでいたでしょうか。
民は恐れ震えていました。遠くに離れ、モーセに「神が直接語らないように、あなたが取り次いでください。でないと死んでしまう」と頼んだのです。ヤハウェの登場に、彼らはひたすら恐れたのです。これは、アダムが神から逃げようとして隠れたのに始まり、ヤハウェの存在に触れた者の共通する反応です。キリスト教は「神は愛だ」と教えますが、同時にヤハウェはおそるべき存在でもあるのです。

しかしモーセは、必要以上にヤハウェを怖がる必要はないと答えました。
確かにヤハウェはおそろしい。しかし罪を犯さなければ、ヤハウェのおそろしさは自分には向けられない。それどころか全宇宙の主である神ヤハウェに祝福され、千代に至るまで恵みを与えられる。となれば、損得で考えても、正しく生きたほうがいいに決まっています。

ところが、そうとわかっていてもなかなか思うようには正しく生きられないのが人の弱さというもののようで、これだけ劇的な場で十戒をさずけられたイスラエルもヤハウェへの反抗を繰り返していくのです。


*1 10のことば
聖書には「第何条」というような番号は振られていないため、キリスト教でも宗派によって、どの段落を前後どちらの条項に入れるかは解釈が分かれている。このページでは、プロテスタント教会で一般的と思われる形式とした。

前へ 上へ 次へ

#072
作成:2000年8月25日
更新:2009年10月1日

布忠.com