出エジプト記 第5回

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ファラオの拒絶(5章~6章8節)

やぶへび

いよいよ、モーセとアロンはファラオの前に出ていきました。そして、イスラエル人の神である主ヤハウェが『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』とあなたに言っている、と大国エジプトの王に面と向かって要求したのです。
しかしファラオにしてみれば、奴隷どもの信仰がどうだろうと知ったことではない。主とは何者か、なぜその言うことにこのわたし、エジプトの王たるファラオが従わねばならぬのかと、当然の返答です。そうでなくても、イスラエル人の人口増加はそのまま、エジプト社会におけるイスラエル人奴隷の労働力の重要性につながってもいるのです。

そしてファラオは、イスラエル人奴隷が怠けるために「荒れ野で礼拝するために休みをくれ」と要求してきたと判断。逆に労働を厳しくしたのです。
『労働を厳しくして、反抗心などよけいなことを考えられないようにする』というのは、時代劇の悪代官に至るまで権力者の常套手段。ファラオは監督たちに「レンガづくりのためのわらをイスラエル人に供給するのを止め、自分でわらを集めさせろ。しかしノルマは減らすな」と命令しました。

その結果がどうなるかは明らかです。もともと重労働の上にわら集めまでさせられ、それでノルマを達成できなければ監督の鞭が待っている。これは、モーセとアロンにイスラエル人の恨みが向くのに十分過ぎるほどでした。彼らは二人に「わたしたちの苦しみを増したあなたたちに主の裁きがあるように」とまで言うのです。

主が贖(あがな)う

かつてモーセは、同胞のためにエジプト人を殺したとき、その同胞の言葉によって逃亡を余儀なくされました。今また、同胞のためにヤハウェから派遣されてきたのに、同胞たちから呪いの言葉をあびせられ、孤立したのです。いえ、たとえ同胞たちに恨まれなくても、自分がファラオに要求したために同胞の苦難が大きくなったヤブヘビな状況は、モーセを苦しませるに十分。
彼はヤハウェに訴えて言いました。「わたしがあなたの御名(みな)によって語るためにファラオのもとに行ったせいで、この民はますます苦しんでいる。なのにあなたは、わたしに語らせはしてもご自分で民を救い出そうとしないじゃないか」
しかしヤハウェは「わたしの強い手によってファラオがイスラエルを去らせる、いや、追い出すのを、あなたは見る」とモーセに断言しました。わたしは主である。イスラエルの父祖には”全能の神”としてわたしをあらわしてきたが、いまこそ”主”というわたしの名の本質を示そう。今こそわたしは、イスラエルの人々との契約を実行に移す。だからイスラエルの人々に伝えよ、とヤハウェはモーセに命じます。ヤハウェ自身が腕を伸ばし、エジプトから、重労働から、奴隷の身分から救い出してあなたがたたを贖(あがな)う、と。

(^^)b ここがポイント d(^^)

ここではじめて示される「主なる神ヤハウェが民をあがなう」という構図は、これから出エジプト記のテーマとなります。ヤハウェは「イスラエルをエジプトから導き出した方」と呼ばれるのです。
そしてこのテーマは、聖書全体をつらぬく主題でもあるのです。「あがなう」という言葉は「奴隷の状態にある者を、代価を払って身受けする」という意味があります。「罪の奴隷となっている人を”十字架によるキリストの苦難”という代価で神が買い戻す」というのが、聖書のテーマなのです。

イスラエル救出作戦(6章9節~7章5節)

自分が派遣されるだけではなく、ヤハウェご自身が民を導き出し誓いの地へ導き入れるのだ。それならばもう一度と、モーセは使命に立ちかえりました。しかしイスラエル人は、モーセから「主がこう言われるのだ」といわれても、耳を貸そうともしないのです。出エジプト記の著者はその理由を「彼らは厳しい重労働のため意欲を失って」いたからだと書いています。ファラオの政策はピタリはまっていたのです。

この状況にモーセは、「もう一度ファラオを説得に行け」というヤハウェに、同胞でさえ聞こうとしないのにと、弱気にこたえます。
これにヤハウェは、もう一度「イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せ」と命じます。(話しを進める前モーセとアロンの系図が挿入されていますが、イスラエルを率いるという大役に立つモーセとアロンの出自を明らかにすることで「人物」を保証するものです)
さらにヤハウェは、ファラオに対してモーセをヤハウェ自身の代弁者とし、アロンをモーセの預言者つまりモーセの言葉を預かってファラオに伝える者とします。ヤハウェ→モーセ→アロン→ファラオという関係をヤハウェは定めたのです。さらに、ヤハウェがファラオを頑迷にするとも予告されます。そして、しるしや奇跡のすえにヤハウェが「エジプトに手を下し、大いなる審判によって」民を脱出させるという、イスラエル救出作戦が示されるのです。

それにしてもまわりくどいような。。。ヤハウェはなぜ、自身でファラオに命じてイスラエルをさっさと出ていかせなかったのでしょう。
それは、奇跡や審判(ヤハウェが下す災厄)をとおして、ファラオとエジプトには「ヘブライ人の神ヤハウェこそ主である」ということを思い知らせるため、イスラエルには「ヤハウェが力ある腕によってイスラエルを救い出した」ということを記憶させるためだろうと思われます。

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#057
作成:1999年12月28日
更新:2002年12月11日

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