創世記 第25回

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イサク誕生の予告(18章1節~15節)

ある日アブラハムは、家(テント)の中があまりに暑かったため、玄関先で暑さをしのいでいました。その時ふと気づくと、アブラハムに向かって三人の人が立っていました。

古代中近東では、旅人をもてなすことは非常に大きな美徳でした。十分に客をもてなすことができるかどうかで、人徳が計られるほどだったといいます。
ところがアブラハムは、旅人が自分を見ていることにしばらく気づかなかったようで、そうと気づいてからは「アブラハムは旅人を休ませなかった」なんて評判はごめんだとばかりに三人のところに飛んでいき、ひれ伏してまで、「お客様、しもべのもとを通り過ぎないでください」と自分を奴隷呼ばわりするほどの腰の低さで引き止めようとします。

ところで創世記の記録者はこの場面の最初に「主は…アブラハムに現れた」と書いています。この三人はヤハウェと二人の天使だったのです。
が、アブラハムは気づかないまま。ただ、日本風に言うなら「何かのご縁ですから」と言う感じですが、”たまたま”に見えてもすべては創造者の導きの中でのことだとは考えていたでしょう。
偶然ではなく、創造者の導きの中でであった人に対してだからこそ、一族の長アブラハムがみずから給仕しながらの、ものすごい歓待となります。木陰の食卓にはずらりと、上等の小麦粉22リットル分のパン菓子、チーズとミルク、屠(ほふ)ったばかりの子牛の料理などが並びました。

ところが、空気が突然かわります。旅人がアブラハムに「1年後、サラが子どもを産む」と告げたのです。
アブラハムはヤハウェの約束を思い出してハッとし、このときやっとこの旅人はヤハウェだ、と気づいたのでしょう。

しかしサラは、ヤハウェだということに気づかなかったか、気づいたものの信じることができなかったのか。何しろこの時アブラハムは99歳、サラは89歳。とっくに閉経したお婆さんが妊娠・出産なんて、信じろという方が難しいということでは、マリアの処女懐胎といい勝負です。
陰で話しを聞いたサラは、思わず笑います。自分は年をとり、もはや夫婦にだけゆるされる楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と。

しかし、物陰で笑ったサラにヤハウェは、なぜ信じないで笑うのかと突っ込みを入れました。
そしてサラが「笑ってない」と言い張ると、ヤハウェはサラの不信仰を責めるのではなく、「主に不可能なことがあろうか」と、このことが必ず実現すると宣言しました。

サラ(”王女”の意味)と言う名をヤハウェから与えられ、これから諸国民の母となるサラに対し、不信仰さを自覚させ、アブラハムの信仰を成長させてきたようにサラも成長させようとするものです。

ソドムとゴモラ[1](16節~33節)

さて、ヤハウェ御一行はアブラハムのもとを出発しましたが、ソドムを見下ろすところまでアブラハムも見送りました。
ここでヤハウェは、二人の天使に「これからすることを、アブラハムに伏せておくのは正しいことだろうか」と言い出します。アモス書3:7にはこう書いてあります。

まことに、主なる神はその定められたことを
しもべなる預言者に示さずには
何事もなされない。

もし今、米国が日本に何の相談もなく、どこかと戦争を始めたとしたらどうなるでしょう。
現在日本は周辺事態法によって、米国が戦争を始めたらともに戦うことになっています。それが本当に日本の周辺だとしたら、米国の相手は米本土よりも日本を攻撃するでしょう。実際の戦争ともなれば自衛隊だけで足りるわけがなく、徴兵制という事態になるのは目に見えています。なのに米国が日本に何も言わずに勝手に戦争を始めたとしたら?

少なくともヤハウェは、これから戦争しようというときに、同盟者アブラハムに断りなくはじめようとはしませんでした。
実はヤハウェはこれから、あの有名なソドムとゴモラを滅ぼしに行くところなのです。

[ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。]
ヤハウェからそう告げられたアブラハムは、ぞっとしました。ソドムの町の様子は、そこに住む甥ロトからたまの便りでもあれば知っていたでしょう。そしてヤハウェがそれを確かめたあとどうするつもりか。
ノアの洪水の時、「神は地をご覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」(6章12節)。ヤハウェが、堕落したソドムとゴモラを見て確かめた時、洪水の時のように町を滅ぼすであろうことは、アブラハムには十分に想像できました。

ヤハウェの一行がソドムに向かおうとすると、アブラハムは思わずその前に立ちふさがりました。ここからアブラハムの必死のとりなしが始まります。

アブラハムは訴えます。その町に正しい者がいても、悪い者と一緒に滅ぼすのか、と。50人の正しい者がいても、その50人のために町をゆるすことはないのか、と。
そんなことはあり得ない、全世界を裁くヤハウェは正義を行うべきではないか、と。

悪人が、自分の罪のために罰されるのは当然です。アブラハムも「かわいそうだから悪人をゆるしてあげて」とは言えませんでした。
だからアブラハムは、創造者自身にかけて訴えたのです。正義そのものであるヤハウェが、悪者を裁くまきぞえで正しい者まで滅ぼすというのか。愛そのものであるヤハウェが、正しい者のゆえに町全体をゆるすことはないというのか、と。

ヤハウェが、正しい者が50人いればゆるそうと答えると、50人に5人足りなかったら、それでも45人の正しい者もろとも滅ぼすのか、と訴えます。さらに40人だったら、30人では、20人しかいなかったら、たった10人だったら、とヤハウェに訴えたのです。
恐れ多くも神であるヤハウェにむかって、これほどしつこく口答えするのにどれだけの肝っ玉が必要だったでしょう。
その信仰に応えるように、ヤハウェはアブラハムに「10人いたら、滅ぼさない」と約束したのでした。

おまけ

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2版:2003年03月13日

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