創世記 第22回

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神の約束(15章)

神によって戦争に勝利したアブラムですが、高齢になっても後継ぎがありません。そんなアブラムにヤハウェは再度、子孫と土地について約束します。
跡継ぎが生まれないままに時が過ぎ、アブラムは自分なりにヤハウェの約束を解釈して、養子をとろうとするなど考えます。しかしヤハウェは、人間の解釈を無用として、ただヤハウェのことばを信じて待つことを教えるのです。

子孫についての約束

14章の戦争ののち、ヤハウェはアブラムに[恐れるな、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう]と語り掛けました。
[あなたの受ける報いは非常に大きい]とは、ソドムの王ベラからの報いを拒否したアブラムに対する、ヤハウェからの恵みの約束です。

神ヤハウェが「恐れるな」と声をかけてやらなければならないとは、アブラムは何を恐れていたのでしょうか。どうやら、子供がないことだったようです。子供がないまま自分が死んだら、それは「あなたを大いなる国民にする」というヤハウェの約束がウソだったことになります。ウソだったら、そんな神にここまでついてきた自分は何だったのか。

だからといってアブラムはヤハウェに見切りをつけることはしませんでした。とはいえ夫婦ともに高齢。それでアブラムは、家来のエリエゼルに、ヤハウェとの契約もろとも相続させようと考えたのです。

しかしヤハウェは、人間の知恵で解決をはかる必要はないことを示します。アブラムの血をひく者が跡継ぎとなると宣言し、夜空の星ほどに子孫を増やすと約束します。
アブラムが見上げた夜空は、乾燥した砂漠に雲ひとつあるわけもなく文字どおり数え切れないほどの星が散りばめられていたことでしょう。

この、常識的には考えられない約束(75歳をとっくにすぎた老人に「これからあなたに子を与える。それが一大民族となる」だなんて!)を、アブラムは信じました。

ヤハウェのことばによって、「アブラムは主を信じた」。そして「主はそれを彼の義と認められた」ここが今回のポイントです。ただ信仰によってのみ、ヤハウェに「正しい者」と認められるのです。これをキリスト教用語では「信仰義認(しんこうぎにん)」といいます。

ローマの信徒への手紙3:10に[正しい者はいない。一人もいない]などなど書いてある通り、十戒も律法も、完璧に守れる人はいません。どれだけ修行をしたか、どんな善行を積んだか、いくら献金したか、どんな儀式をうけたか。そのような「おこない」によって、義とされることはないのです。人はただ、信仰によって義とされるのです。

アブラムはこのあとも、いろいろな失敗を重ねていきます。信仰を義と認められることは、ゴールでもなくスタートなのです。アブラムもこれから、いろいろな経験を通して、信仰が訓練されていきます。

クリスチャンというのは清く正しく生きられる人がなるのではなくて、失敗もあるけど、神によって清く正しく生かされるためのスタートを切った人のことなのです。そこには、窮屈さではなく喜びがあります。

土地についての約束

子孫についての約束に続いて、ヤハウェは土地についても約束します。この約束は、ヤハウェの自己紹介から始まりました。

いわゆるご神体やご神木のたぐいは、人間がそれを神とした物、あるいは人間が、そこに神が降臨するもの、としたものです。ただならぬ気配を感じさせる霊峰、はるか昔から村を見守ってきた巨木、人が手で作った像や刀剣、そして人そのものを、人間が「これが神です」といったのです。

しかしヤハウェは自己紹介する神なのです。人間が御輿(みこし)にかついだから神になったのでもなく、想像力や神を求める心が生み出したのでもなく、たとえ人が「神は死んだ」と言おうとも、「私は・・・主である」と言って存在し続けているのがヤハウェなのです。

そのヤハウェが「この土地を与える」と約束します。これに対してアブラムは、証拠を求めるのですが、これはヤハウェを疑ったのでしょうか。

「神のことばを納得できなかった」という事実があったときに、「はあ、そうですか」と放っておく方が、むしろ不信心な姿勢です。信じるからこそ、納得した上で約束に期待しようとしたのです。
約束の確かさを求めるアブラムに、神は儀式を指示します。いくつかの動物を二つに裂き、その間を歩いて「もしこの契約に違反したら、この動物のように裂き殺されてもよい」と誓うこの儀式は、契約の際に当時よく用いられるものでした。つまりアブラムにも納得できる、人間の契約方法によって、神はアブラムに誓うのです。

しかし、カナン(現在のパレスティナに相当)地方は今すぐアブラムに与えられるのではありません。ヤハウェは予告します。
  「アブラムの子孫が外国に寄留する」
  「その土地で400年間奴隷となり、苦しめられる」
  「神が、その外国を裁く」
  「その国から、多くの財産をたずさえて脱出する」
これらは、アブラムの子孫であるイスラエルがエジプトで経験することについての予告で、一つ一つがすべて実現することになります。

でも、なぜ今すぐではないのでしょうか。
アブラムの子孫イスラエルがカナンの地に戻ってくるのは四代目の者たちと予告されていますが、「それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからだ」とヤハウェは言います。アモリ人とは、ここではカナン地方の住民の総称ですが、彼らがその罪のゆえにヤハウェに罰されるために、イスラエルが戻ってくると言っているのです。

イスラエルが正しいからカナン人を滅ぼすのではありません。ホメロスの詩では、ギリシャの神々はそれぞれ好き勝手に、ギリシャ軍やトロイ軍に味方しました。しかしヤハウェはイスラエルにひいきして勝利させるものでもありません。
カナン人がその罪のために、ノアの時代に洪水で滅ぼされた人々のように滅ぼされる。そのためにヤハウェは、洪水をもちいたようにイスラエルをもちいるだけです。のちにイスラエルがヤハウェに背(そむ)いたときには、ヤハウェは外国の軍隊によってイスラエルをこらしめました。

なぜ、今すぐではないのか。その答えは聖書に明確には書いていませんが、聖書には、神が人間を本当は罰したくない、本当は悔い改めて帰ってきてほしいと願っている願いが繰り返し書かれています。おそらく、アモリ人の罪が満ちるまで、正義そのものであるヤハウェが滅ぼさなければならないまでに罪が満ちてしまうまで、愛そのものであるヤハウェはアモリ人の悔い改めを待ちたいのでしょう。たとえそうならないとわかっていても。

おまけ

エジプトで400年間奴隷となると言ってすぐ、カナンに戻ってくるのは四代目の者たちというのは矛盾があるように見えます。聖書は間違っているのか?

ここで”世代”と訳される言葉はもともと「一生涯」の意味です。そして創世記6:3で人の一生は120歳と定められました。
実際にイスラエルがエジプトにいた期間は430年(出エジプト記12:40)、さらに約40年を荒野ですごしたあとカナンを征服します。つまり「4回目の120年」の世代が戻ってきて、ヤハウェの言葉は矛盾なく実現するのです。

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2版:2003年03月11日

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