創世記 第17回

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バベルの塔(11章1節~9節)

ノアの子らの系図は10節からまだ続くのですが、その前に、なぜノアの子孫である人類が「氏族、言語、地域、民族ごと」に別れて住むようになったかの説明が入ります。その理由は、バベルの塔にありました。

芸術の題材ともなり、日本ではアニメにもなりました(といっても聖書とはなんの関係もなし)。ノアの箱舟と並んで、日本でも有名な事件です。

塔の建設

バベルとは、ノアの息子の一人ハムの子孫のニムロドが建てた都市です(10:9-10)。
メソポタミア地方には建材となるような岩はありませんでしたが、住民はレンガを発明し、その接着にアスファルトをもちいることによって、それまでにない規模の建築が可能になりました。(レンガの接着にアスファルトを使っていた形跡が、バビロンの遺跡から発見されているそうです)
天地を創造したヤハウェに似て、ものをつくることに喜びを感じる人類。ヤハウェが人間にだけ与えた知恵をもちいて、どんどん発展していきます。

そころが、人間はせっかくの知恵を、おろかなことに使いだすのです。人類はこんなことを考えました。

「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」

知恵は創造者から与えられたものですから、文明の発達自体は悪いことではありません。愚かだと言ったのは、これが創造者への挑戦だったからなのです。生まれたての乳児が親に向かって「この家のことは全部まかせて、あなたは隠居してくれ」などと言うようなものです。

世界中にあるピラミッドの多くは、神々のいる高い所へ人間ものぼろうとするためのものです。人々はその頂上で、神事をおこないました。
バベルの人々も、有名になる(別の訳では「名を上げる」)ために、高い塔を建てようとしました。自分を創造者とひとしくしよう、創造者にとって代わろう、というのは、サタン(悪魔)がいつもたくらんでいることです。

また、塔を作ることによって(つまり自分たちの力で)散らされることを防ごうとしたのも愚かです。
そもそも、人類は神から「地に満ちよ」と言われていたのです。それは散らされるというネガティブなことではなく、創造者からの祝福と恵みをたずさえて全地球に広がっていくというポジティブなことだったのです。
なのに人が、散るのを恐れたのは、まるで悪人が徒党を組みたがるような心理になったのかもしれません。

さらに、この塔自体が問題です。この塔そのものが、人間が創造者から離れることの象徴として建てられようとしていたのです。
古代アッカド帝国の時代、バビロニア地方で”ジッグラト”と呼ばれる塔がさかんに建てられました。塔というより人工の丘といったものでしたが、その目的は、先に書いたピラミッドのように、その頂上で神々に会うためでした。
天に届く塔とは、多神教の偶像礼拝の象徴であり、それは唯一の神、創造者であるヤハウェへの反逆なのです。

建設の頓挫

これを見た主なる神ヤハウェは、ついに行動を起こします。

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」

「妨げることはできない」とは、「今のうちなら、妨げてやれる。このままでは、滅ぼさなければならなくなる」という、創造者の人間への愛です。悪さする息子を、手遅れにならないうちに殴ってでも更正しようとする親の愛です。創造者が人間にかなわなくなるという意味ではありません。

この愛のゆえに、創造者は人間のところに降りてきました。これはヤハウェが空の上のどこか高いところに存在するという意味ではなく、人間が神に届こうと尽力したところで、それは神がわざわざ降りてこなくてはならないほどに低いのだということを示すものです。

そして創造主は、人間の言葉を混乱させたのです。
ノアたち一家族から出た人類は、当然、ノアたちが使っていた言語を唯一存在する共通語としていましたが、この瞬間、コミュニケーションが破綻しました。たとえば、設計者が日本語、レンガ焼きが英語、レンガの運搬がドイツ語、現場監督がフランス語、レンガ積みがギリシャ語、などという状況になったら、建設どころではありません。

聖書は「バベル」の語源は「バラル(混乱)」であると書かれていますが、この結果人間は「あんたとはやっとられんわ」「ほな、さいなら」と、同じ言葉を話すものたちで集団となり、地に広まっていくことになりました。
散らされまいとした人類は、結局、ヤハウェの「地に満ちよ」の命令を実行することになったのです。

この時に、人間の拡大とともに罪もひろまっていってしまうのですが、やがてセムの子孫であるアブラハムの子孫を通して、地上の氏族はすべて創造者の祝福に入ることになるのです(→創世記12章1-3節)。

族長時代への序章(11章10節~32節)

12章から、アブラム(後のアブラハム)が登場し、イサク、ヤコブと続く、いわゆる族長時代になります。ここからは、アッシリア、バビロニア、エジプトなどの考古学資料の研究にも支持されて、読み手にとっても歴史としてとらえやすい時代になります。

だからといって11章以前が、歴史ではなく神話であるというわけではありません。
歴史学の分野では、ひとつの文献(たとえば聖書)の史料価値を否定するには、対立する文献や物的証拠によらなければならないそうですが、史料としての聖書に対立する有力な証拠というのはまだ出てきていないようです。

さて、11章のセムの系図は、イスラエルの父祖と呼ばれるアブラハムが何者であるかを語ります。
実はこの系図は、完全なものではありません。ルカによる福音書3章後半の系図と比較すると、アルパクシャドとシェラの間にカイナムという人物が抜けているのです。

つまり、全世代を網羅するのが目的の系図ではなく、アダム、ノアからアブラハムまでの一貫性と、ノアからわかれた全人類の中から、ヤハウェが一方的にアブラハムを選んだことを示すことが目的の系図で、アダムからノアを10代、セムからアブラ(ハ)ムまでを10代とそろえることに、何か著者の意図があるのでしょう。

つけくわえると、子孫を子と呼んだり、先祖を父と呼んだりすることは、聖書ではごく普通のことなので、読むときには注意が必要です。

ここで、5章の系図とこの11章の系図の、書き方の違いにちょっと注目してみましょう。
5章では「何歳で死んだ」という視点、11章では「何歳まで生きた」という視点で書かれています。この書き方の違いに意図があるなら、5章は罪の結果として受ける死に注目し、11章のセムからアブラムへの家系は神の恵みによって生きたことに注目しているかのようです。

参考
「罪が支払う報酬は死です。」ローマの信徒への手紙6:23
「主を求めよ、そして生きよ。」アモス書5:6

おまけ

バベルの塔建設をもくろんだ者たちは、「レンガをよく焼こう」と言いました。レンガには、自然乾燥させるものと、かまどで焼く製法があります。
焼いた方がはるかに硬く、高い建築物の重さを支えることもできます。焼きレンガの発明は、メソポタミア文明の発展に貢献したことでしょう。

しかし、文明の発展も知恵も創造者からの恩恵という一点を外すと、戦争のための科学技術の進歩というようなことになってしまいます。
聖書の原語で罪を表す単語はいくつかありますが、その一つは直訳すると「的はずれ」という単語です。本来のあり方から逸脱することを罪と呼ぶのです。

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2版:2003年03月11日

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