創世記 第16回

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ノアの失敗、ハムの失敗(9章20節~29節)

洪水のあと、ノアたちの生活も日常に戻りました。農夫だったノアはぶどう畑を世話しながら、末永く幸せに暮らしましたとさ。・・・となればよかったのですが、ある日事件がおこります。ノアは、ワインでしたたかに酔って、裸で寝てしまったのです。裸をさらすというのはとても不名誉なことでした。

せっかくノアを、ヤハウェに従って生きたと誉めてきたのに、少し酔っ払ったくらい記録しなくても、と思うところですが、聖書は「完璧な人間などいない」とでも言いたげに、どんな英雄や賢王についても、功罪ともに記録しています。

この時、三人の息子はどのように対応したでしょうか。
第一発見者のハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げました。
するとセムとヤフェトは、酔いつぶれた父のところに後ろ向きに歩いて行き、父を着物で覆いました。

ハムの行動には、父に対する愛がありません。
父のテントに入って、その不名誉な姿を見てしまったのは不可抗力であるとしましょう。そこまでは、恥をさらしたノアが悪い。でもハムが父を愛し、父の名誉を守ろうとするつもりがあるなら、その裸をおおい、黙っているべきでした。しかし彼は、父の恥を、身内とはいえ第三者である兄弟に言いふらしたのです。

たとえばあなたの友人が、何かドジをやったとします。その時もしあなたが誰かに「この前、あいつがこんなことやってさ・・」と話したとしたら、たとえあなたが「悪気はなかった」といっても、友人に対して愛のない行為ではないでしょうか。愛は、愛するものの名誉を守り、恥をおおうものです。

セムとヤフェトは、父を愛するがゆえに、父の醜態を見ずに近づいて、恥ずべき姿をおおったのです。

酔いからさめたノアは、自分が正体をなくしている間にあったことを知り、ハムと、ハムの息子カナンに怒りをむけて「カナンは呪われよ。奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」と言ったのです。

なぜ息子まで?
実はカナンの子孫であるカナン人はこのあとの歴史において堕落していき、多神教に走り、性的にも乱れていきます。そのきざしがすでにノアに見えていて、「この親子はまったく!」ということであったのかもしれません。

失敗した人が必要以上に激昂したり八つ当たりするのとは違って、愛のないハム(とカナン)の人間性に対して、怒りを向けたのです。

そして、ノアの怒りが正当だからこそ、ノアがカナンを呪った通りにヤハウェが歴史を動かしていきます。後に、セムの子孫であるイスラエルがエジプトから脱出してきたとき、カナン人の土地はイスラエルに征服されていくことになるのです。

人類、ふたたび全地へ(10章)

また、長々と系図が続きます。単にノア家の系図というだけでなく、「ハムの子孫は、クシュ、エジプト、プト、カナン」というように、ノアとその妻という一組の夫婦から、地上のすべての民族が出てきたと書いているのです。

梅田与施夫さんのサイト「ホーリーリバー バーチャルチャーチ」http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/3381/の「聖書講座/解説付き聖書地理」の「創世記(諸国民地図・系譜)」に、創世記10章の各民族の系譜と居住地域が図解されています。

ここに上げられているのは地上の全民族の名前ではありません。日本人やネイティブアメリカンなど、ここに名前のない民族も多くあります。じゃあやっぱり聖書は不完全なもの?
この系図は、「全世界の人々は彼ら(ノアの息子たち)から出て広がった」(19節)ことを記録するものです。日本人などここに名前のない民族も、「彼ら(ここに名前のある民族)から分かれ出た」(32節)のです。

文字どおり、「世界は一家、人類みな兄弟」です。ではなぜ、それが全地に散り、一つの家族から出たとは思えないほどにバラバラの言語をもつのでしょうか。それについては11章で明らかにされます。

さて、ここにあげられた民族をひとつひとつ取り上げることは、それほど重要ではありませんので、ポイントだけ。

ヤフェトの子孫は「海沿いの国々」に広がっていきました。この海は地中海方面を指し、現在地(中近東)からみて北のほう、ヨーロッパに向かって分布したようです。

ハムの子孫。新改訳と口語訳でミツライムとあるのは、エジプトです。エジプトは、セムの子孫であるイスラエルにひどい目にあわされることになります。(→出エジプト記ほか)
このエジプトからカフトル人が現れ、カフトル人からペリシテ人が出るのですが、ペリシテとイスラエルはのちに宿敵として戦いつづけることになります。ちなみに”パレスティナ”という語は”ペリシテ人の地”という意味です。

セムの子孫については、11章の後半に詳細な系図がありますので、あとで読むことにします。

おまけ

ノアの泥酔ではじまった今回の事件ですが、聖書では飲酒自体は禁じられていません。使徒パウロは、薬用としてならむしろ飲酒をすすめてさえいます。
が、「酔ってはならない」「責任ある立場の者は酒を好んではならない」と戒めていもいます。ソロモン王も、大酒はろくなことがないと繰り返しています。

「主なる神」という表現がたびたび出てくるように、ヤハウェに従うとは、ヤハウェを自分の主人にするということです。酒に酔うことは、酒を自分の主人にすることになるからいけないのです。(えらそーなことは言えない筆者ですが)

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2版:2003年03月11日

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